昭和を代表する落語家の1人、初代・林家三平。三平は1979年正月に脳溢血で倒れて1週間昏睡状態になり、右半身が麻痺、言語障害が生じたが、10月に奇跡の復帰を果たす。しかし1980年9月に肝臓がんで入院し、2日後の9月20日に亡くなった(享年54)。息子である二代目・林家三平が、父について振り返る。
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「笑はせる 腕になるまで 泣く修業」
小学生の頃に亡くなった父は、背中で生き様を見せてくれました。
幼稚園や小学校が終わると迎えにきてくれて、東宝名人会や落語会に一緒に連れて行ってくれました。子供ながら父の高座はすべて見てきました。
人間は緊張すると手が冷たくなるんですよ。高座までの動線で手をつないでいるのですが、父の手がどんどん冷たくなるんです。普段通りにやればいいものを、今まで以上のものにしようとするから緊張している。“昭和の爆笑王”と言われた父でさえ緊張するということを、体温で示してくれました。
子供だった僕は、言葉で言われてもわからなかったと思いますが、あの冷たさは今でも鮮明に覚えています。「舞台は戦場なり」という言葉を父は残していますが、高座で精一杯やって戻ってきたら汗でぐちゃぐちゃ、袴も汗でシミだらけ。父は“笑いの戦士”でしたね。
〈後に長男は林家正蔵(九代目)、末っ子の泰助(林家いっ平)が林家三平(二代目)を襲名した〉
父が亡くなる寸前にがんで入院した時、息子たちに自分が苦しんでいる姿を見せたくないと家族に言っていたようで、2回ほどしか行っていません。病院の窓から新宿の超高層ビル群が見えました。「退院したらあそこに上ろうね」という父の言葉を覚えています。
その1年前に脳溢血で倒れた時には何度も病院に通いましたが、右半身不随になった父が僕に「泰助と約束だ。来年の夏は海で泳ぐから」とさらっと言ったんです。そしたらクイズ番組でアメリカ旅行が当たり家族みんなで行って、父は本当にハワイの海で泳いでくれました。さらりと言って、やってのける。その姿は格好よかった。
父が亡くなる前に「これを取っておきなさい」と渡してくれた色紙があります。そこに直筆で書かれていたのは「笑はせる 腕になるまで 泣く修業」(1955年2月26日付)。当時9歳の僕には意味がよくわからずに、色紙は学習塾の棚にしまっておきました。