1969年の『週刊ポスト』創刊当初の名物コーナーが「衝撃の告白」。銀幕のスターや渦中の人物が赤裸々に語る同コーナーは、タイトルどおり衝撃的な証言が次々と飛び出し、当時大きな話題となった。1971年4月2日号には渥美清が登場。『男はつらいよ』シリーズで多くのヒロインたちと恋物語を繰り広げた国民的スターが、戦争、病、そして“恋”について語った、そのこと言葉を振り返る。
「いいかい。選挙の応援を求められる、渥美清ってのはさ、つまりオレのファンの応援を狙っているということじゃないのかい」
1946年に『阿部定一代記』で初舞台を踏んだ渥美は1953年に浅草のフランス座に入って修業を積み、1963年の主演映画『拝啓天皇陛下様』で花開く。1968年、ドラマ『男はつらいよ』で下町出身の風来坊の当たり役に巡り合う。翌年に映画版が製作され、1971年春に早くも7作目が公開されようとしていた。
そんな人気者を政治に利用する風潮は今も昔も変わらない。1967年の東京都知事選で「福祉政策」を掲げる社会党、共産党推薦の美濃部亮吉の推薦人になり、革新都政誕生に一役買った。
「自分自身若い頃に結核で闘病生活をしたからね、ロッコツ二本も切りとってんだよ。それにさ、七十八歳にもなるオフクロが脳軟化症で十年間もねたままだった。だからさ、福祉政策ってェのに弱いんだ」
渥美は25歳からの約2年を療養所で過ごした。隣のベッドの男性が妻に浮気され、自殺したという悲劇も目の当たりにしていた。1971年の都知事選では美濃部、自民党推薦の秦野章の両陣営から応援を頼まれたが、断わった。国民的スターの階段を登っていた彼には、心境の変化があった。
「オレが応援するから投票するという人が現実にいるかぎり、オレはその責任をどうしてとったらいいんだい」
有権者の思考にも疑問を呈した渥美は重くなった雰囲気を変えようとしたのか、突如として“昭和18年の童貞喪失”を語り始める。
「たしか十五歳のときだ。もう戦争は見通し暗いころでね。オレたちも二十歳までには必ず死ぬものと考えてたんだ」
ある日、兄貴分と慕う男から「女を知らずに神様になっちゃつまんないや。吉原にいこう」と誘われ、渥美は初体験を済ませた。
「無感動だったはずはないのに、どんな具合だったか思い出せないんだ。童貞をなくすってえのは、そんなものじゃないのかな」