夏の甲子園で、史上初めてベスト4を近畿勢が独占した今大会。雨天順延が続いても自校の施設で調整できる“地の利”などの要因が指摘されたが、そうしたなかでその牙城を崩すところまであと一歩だったのが、準々決勝で智弁学園(奈良)にサヨナラ負けを喫した明徳義塾(高知)だった。試合後に近畿勢の強さに言及した「敗戦の弁」が注目された馬淵史郎監督(65)だが、今年のチームでは例年以上に、近畿地方の強豪私学のような“巨大戦力”に対抗したい思いがあったのではないか──ノンフィクションライター・柳川悠二氏がレポートする。
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雨とコロナにたたられたこの夏の甲子園で、3勝を挙げて甲子園通算勝利数を54(歴代4位)にまで伸ばした高知・明徳義塾の馬淵史郎監督は、準々決勝で奈良の智弁学園にサヨナラ負けを喫し、聖地を去った。
「体が大きくなく、パワーもなければスピードもない。そんなチームがセンバツに出て、夏もこうやって甲子園にたどり着いた。170センチを切るような小さな選手が5人おっても、ここまで(準々決勝)までは戦(や)れるんだということは証明できた。バントで送って手堅く1点を取りに行く。うちがやったのは“高校野球”ですよね。全国で頑張っている球児に勇気を与えたんじゃないでしょうか。3年生には『ごくろうさん』と本心から言いたい」
いつも甲子園を去る時には敗因をとうとうと語り、その日のうちに宿舎も引き上げて高知に戻り、翌日から練習するのが明徳義塾だ。だがこの日の馬淵監督は2002年夏以来となる日本一の夢が潰えた悔恨は抱えていても、まずは3年生に対する労いの言葉を口にしていた。
高知大会のチーム打率は.315と低調で、盗塁は4試合でゼロ。代木大和というドラフト候補のエース左腕はいても、大阪桐蔭や智弁学園、智弁和歌山などと比べればどうしても見劣りしてしまう選手たちを、野球道場と名付けられた明徳のグラウンドで馬淵監督は鍛え上げてきた。