菅義偉・首相のお膝元の横浜市長選で自民党は大敗。「菅首相のままでは確実に総選挙に負ける」(自民党3回生議員)と、党内は大騒ぎだ。高市早苗・前総務相、下村博文・政調会長、岸田文雄・前政調会長らが出馬に動き出しているが、若手議員から「選挙の顔」になれると期待されているのがワクチン担当の河野太郎・規制改革相だ。ツイッターのフォロワー数は国会議員最多の230万人を超え、新聞・テレビの世論調査でも「次の首相にふさわしい人」の1位につけている。
河野家は戦前・戦後を通じて90年近く、一族で国政に議席を持ち続け、鳩山家、岸・安倍家とならぶ政界の名門として知られる。その一方、永田町で「総理になれない家系」とも言われる。祖父の一郎氏も父の洋平氏も、「総理の座」をつかみかけながら、目前で逃したからだ。
祖父・一郎氏は、朝日新聞記者を経て戦前に代議士となった。戦後は吉田茂・首相と対立したが、保守合同で自民党が結成されると河野派を率いて農林大臣、建設大臣などを歴任し、党実力者の1人となる。
総理のチャンスは2回あった。最初は岸内閣時代(1959年1月)、党内対立に苦しんだ岸信介・首相は、大野伴睦・副総裁、一郎氏らの協力を得るために、総裁を大野氏、一郎氏、佐藤栄作氏の順に回す政権禅譲の密約を交わす。しかし、岸氏はその密約を反故にした。
2度目は1964年に池田勇人・首相が病で退陣を表明したときだ。その年の総裁選で池田氏を支持し、副総理兼五輪担当相に就任していた一郎氏は政権禅譲を期待した。だが、池田氏は佐藤氏を後継指名し、一郎氏は失意のうちに急死する。政治評論家の小林吉弥氏が語る。
「河野一郎という人は持論を譲らず、筋を曲げないタイプ。戦前からの党人派政治家として官僚出身者を重用する吉田首相を批判し、自民党では吉田門下の保守本流と対立してきた。結局は池田、佐藤という保守本流に総理就任を阻止された」
祖父の跡を継いだ父の洋平氏も同じ“宿命”を背負った。田中角栄・首相の金権政治を批判して自民党を離党し、新自由クラブを結成する。その後、自民党に復党、宮沢内閣の官房長官を務め、1993年の総選挙に自民党が敗北して下野すると、野党時代の自民党総裁に就任した。
自民党は翌年、自社さ連立の村山内閣で政権に復帰し、洋平氏は副総理兼外相に就任。1995年7月の参院選で社会党が大敗し、村山首相が辞意を漏らして洋平氏への政権禅譲が取り沙汰されたが、旧田中派の流れを汲む小渕派が河野首相就任阻止に動き、橋本龍太郎氏を擁立。洋平氏は所属する宮沢派をまとめきれず、戦わずに出馬を断念した。毎日新聞記者出身で洋平氏の秘書を務めた鈴木恒夫・元文科大臣が言う。
「洋平氏は自ら総理の座をつかみにいくようなことはしませんでした。日頃から『総理を目指すのではなく、なすべき政治を行なうのが政治家の本分である』と語っていて、理想を追い、権謀術数で権力を取るということをしなかった。これでは総理になれるものではないと思います」