人間の思考が言葉によって形成される以上、表現が極めて重要な要素であることは論を俟たない。コラムニストの石原壮一郎氏が考察した。
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人は都合が悪いことを語るときは、つい「言い換え」をしてしまいます。誰しも身に覚えがあることでしょう。相手に嫌われてフラれたことを「話し合って別れた」、実力不足で出世できないことを「自分は要領が悪いから」などなど。このへんはプライドを守るためのケナゲな工夫なので、まあとくに罪はありません。
タレントやアイドルがテレビ番組を降板することを「卒業」と言ったり、どこが旨いのかわからない名物を「珍味」と表現したりするのは、相手への気遣いを込めた言い換え。部下から箸にも棒にもかからない提案が出てきたときには、「もっとマシな案を考えてこい」と厳しく言わずに、相手のタイプによって「今は時期がよくないかな」などとソフトな表現で却下するのが、上司に求められる言い換え力と言えるでしょう。
こうした「やさしい言い換え」もたくさんあるいっぽうで、昨今のニュースを見ていると、強引な上に魂胆が見え見えの「姑息な言い換え」を目にすることが少なくありません。いや、昨今に限りませんね。戦時中も「撤退」を「転進」、「全滅」を「玉砕」と言い換えていました。もしかしたら日本の伝統芸かもしれません。
コロナに関するニュースでは、どうやら「医療崩壊」と呼んだほうがいい状態になっているのに、政府は「医療がひっ迫」と言い続けました。自宅療養を中心にするという「方針転換」には、戦時中の「転進」に近いニュアンスを感じます。この先、一日も早く事態が落ち着いて、だけど迂闊に「もう安心です」とは言えないから、念のために「まだまだ警戒が必要ですが」と言い換えてアナウンスする状況になってほしいですね。
ほかにも、たとえば厚生労働省は、前途ある外国の若者を人身売買に近いやり方で日本に連れてきて奴隷的な扱いをする制度を「外国人技能実習制度」と言い換えています。入管庁は収容中のスリランカ人女性が死亡した問題で、施設内の様子が映った映像の開示を渋る理由について、「自分たちがやったことが知られると困るから」を「プライバシー保護の観点から」と言い換えていました。
会社などでも、ずいぶん減りはしたものの、セクハラを「コミュニケーション」「愛情表現」、パワハラを「指導」「愛のムチ」と言い換える人が、完全に絶滅したわけではありません。巷の一部では、売春行為の言い換えとして「パパ活」という言葉が便利に使われていたりもします。
さまざまな例をあげましたが、最初の「やさしい言い換え」はさておき、それ以外の言い換えに共通しているのは「ちょっとみっともない」ということ。マイナスイメージをやわらげたい、責任や落ち度を少しでも軽くしたい、本質から目をそらしたい――。そういった意図とは裏腹に、なおさら印象が悪くなったり評価を下げたりします。