昭和20代頃から日本一の繁華街として“男たちの憧れ”だった銀座。文壇や政財界の関係者が多い銀座はスポーツ選手にとってはハードルの高い場所だったが、それでも一流のプロ野球選手は銀座を愛した。中でも人気だったのが、直木賞作家の山口洋子が率いる「姫」。球界の大物たちが思い出を振り返る。
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1983年の日本シリーズで巨人を4勝3敗で破って日本一になった西武ライオンズ。埼玉・所沢の西武球場(当時)横の特設会場でビールかけを終えた東尾修、田淵幸一、大田卓司、永射保、工藤公康ら主力選手たちの姿は、東京・銀座にあった。そう、二次会の場所はクラブ「姫」である。主力として日本一に貢献した山崎裕之もその宴に参加したひとりだった。
「私はお酒があまり得意じゃないですが、初めて巨人に勝って日本一になったので、1度だけ『姫』に繰り出したんです。みんな大喜びで羽目を外して、今やソフトバンクの監督をしている工藤公康が酔っぱらって床に大の字になって寝ていたという記憶があります。
銀座が好きな東尾や田淵たちが仕切ってくれていた。我々はついていくだけでしたが、『姫』のママの山口洋子さんが西武ライオンズの“私設応援団長”として有名だったこともあり、その時は『姫』が貸し切りだったと記憶しています」
当時、プロ野球選手にとって銀座で飲めるというのは「一流」の証だった。
「特に関西から遠征に来たチームの選手は地方では遊べないので羽を伸ばす意味合いもあったようです。銀座好きで有名な選手が打席に入ると、“銀座が終わっちゃうぞ”というヤジが飛び、つい笑ってしまうこともありましたね」(山崎)
「巨人に勝ったら銀座」
銀座への“はやる気持ち”は身内からもぶつけられた。ヤクルトの元エース・松岡弘はこう証言する。
「ボクが入団した当時のサンケイは凄かった。個性的で我が強い選手ばかり。特に内野手は個性的で、マウンドでモタモタしていると、四方から“打たせろ”“ストライク投げろ”とうるさい。9時を過ぎると“約束してるんだから早く試合を終わらせろ”としょっちゅう小石が飛んできました」
カミソリシュートを武器に“巨人キラー”の異名をとった大洋ホエールズ(現DeNA)の元エース・平松政次も銀座に足繁く通った選手である。
「ボクもよく銀座には足を運びました。後楽園で(巨人戦に)勝って銀座に行くのが目標だったからね」
しかし、巨人の人気が凄まじかった当時、他球団の選手が気持ちよく酔うためには、「巨人に勝った」という“切符”が必要だった。
「負けたら? 行かないですよ。みっともない。巨人に勝って店に行くと、“今日はいいピッチングだった”とお客さんから声をかけられて、それを励みに野球をやっていたようなもの(笑)。(大洋の本拠地である)川崎球場でも巨人戦で勝つと銀座まで遠征していた。とにかく巨人、巨人、巨人の時代でした」(平松)