“条件付き”で年寄「間垣」を襲名した第69代横綱・白鵬。年寄資格審査委員会から「襲名を認めるなら厳しい条件をつけるべき」との進言を受け、理事会では「新人の親方として理事長はじめ先輩親方の指揮命令・指導をよく聞き、本場所等、与えられた業務を誠実に行うこと」「大相撲の伝統文化や相撲道の精神、協会の規則・ルール・マナー、相撲界の慣わし・しきたりを守り、そこから逸脱した言動を行わないこと」などの事項を守ると誓約することを条件に、「間垣」の襲名が認められたが、このようなかたちは異例のことだ。
基本的に、年寄資格審査委員会での議論は形式的なもので、場所中に引退届を提出した幕内力士のケースでは、即承認されてその日のうちに引退会見まで済んでしまうのがほとんどだ。過去に年寄資格審査委員会で承認されず、親方になれなかった力士は1人だけ。後に、八百長の仲介役である「中盆」であることを告白した元小結・板井(板井圭介氏)だ。2018年に亡くなった板井氏は、引退した時の状況を本誌・週刊ポストの取材でこう証言していた。
「当時3億円といわれた年寄株を取得してまで協会に残る気持ちはなく、星を回してもらいながら40歳までノラリクラリ現役を続けるつもりだった。そうしたところに、かわいがってくれていた元・大昇から“年寄株がないと引退相撲もできないだろう。オレの『春日山』(当時は空き株)を貸してやるから引退相撲をやれ”と声を掛けてもらった。これで引退に気持ちが大きく傾いた」
引退を決めた後、星を売って換金するために幕内力士として史上4人目の15戦全敗となるなどの“伝説”を作ったあと、十両に陥落して引退を表明した。板井氏はその後の経緯について、こう説明していた。
「引退表明の翌日、親方と一緒に紋付羽織で国技館に行ったものの、親方が執行部室に入ったまま1時間以上帰ってこなかった。理事長室に行くと二子山理事長(元横綱・若乃花)と巡業部長の中立親方(元横綱・栃ノ海)が反対し、襲名が認められなかった。表向きの理由は『10年で巡業に2回しか参加していないから』ということだったが、八百長の中盆だったことが理由なのは明白だった。協会も後ろめたかったのか、“力士会がやることだから”と年寄を襲名しない力士としては異例の国技館での引退相撲を認めてくれた」