国内外を問わずオーディション番組は人気だが、日本におけるその嚆矢となったのが『スター誕生!』(日本テレビ系)。12年間の放送で、中森明菜、小泉今日子、岩崎宏美などがこの番組から羽ばたいた。そして、新沼謙治も『スタ誕』出身者の1人(1975年 第14回決戦大会合格)。新沼が当時のことを振り返る。
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宇都宮の左官屋で働いていた19歳の頃、歌の好きな親方に勧められて、町内ののど自慢に出たら優勝したんですよ。親方が審査員だったんだけど(笑)。周りに「おめえ、合格するんでねえか」と乗せられて、『スタ誕』を受けました。予選会では挑戦者700人の中から1次通過の20人には残るけど、テレビに出る7人には選ばれない。4回続けて同じ結果でした。でも、他の人の歌を聴いてもそんなに上手いと思わなかったし、妙に自信があった。5回目の挑戦で、五木ひろしさんの『哀恋記』に変えたら合格。リズムのある曲が自分に合ったんでしょうね。
後楽園ホールのテレビ予選で歌った時、最高に気持ち良かったですね~。だって、素晴らしいマイクで生バンドの音で歌えるんですよ。いつもステレオに挿したマイクでカラオケだったんだから。自分の歌に酔いしれちゃって、欽ちゃんに質問されてもボーッとしてましたよ(笑)。阿久悠先生に「あなたの歌は気持ち良く悲しく聞こえる」、森田公一先生に「出てきた瞬間、温かい人だなとわかった」、都倉俊一先生に「久しぶりに輝いた人が出てきた」と言われた。これだけ褒めてもらって、落ちようがない(笑)。
デビューして『嫁に来ないか』を歌ってる頃、ファンが履歴書を持って、岩手の実家に押し掛けてきました。読むと、〈人生の目標:あなたの嫁になること〉と書いてあるんですよ(笑)。結果的には何百人も来たみたい。10人くらいの団体になると、ウチのばあさんが「泊まってけ~」と言って、みんな雑魚寝して朝食食べて帰ったらしいです。
当時は「いきなり贅沢させると長持ちしない」という事務所の方針で、目黒の共同トイレ、風呂なしの月光荘に住んでいました。俺は小さい時も左官屋の時も金なかったし、会社の幹部よりよっぽど苦労してきたと思うけど(笑)。1年くらい経ってマスコミに追われ始めた時、プロデューサーの池田さんが「俺のマンションに住むか」と紹介してくれて、晴海に引っ越しました。
予選を受けに東京に行く時には、親方の奥さんが「謙治持ってきな!!」といつも1万円くれていたし、僕は本当に人に恵まれていますね。変な人が寄ってこない。自分が変だからね(笑)。
【プロフィール】
新沼謙治(にいぬま・けんじ)/1956年生まれ、岩手県出身。1976年2月『おもいで岬』でデビュー。同年含め、『NHK紅白歌合戦』に通算13回出場。デビュー45周年記念シングル『地図のない旅』発売中。
取材・文/岡野誠
※週刊ポスト2021年10月29日号