全国市長会長を務める福島県相馬市の立谷秀清市長が、連合の芳野友子会長について「美人会長」と発言(10月28日)。これが容姿に着目したセクハラだと指摘され、「軽率な発言だった」と謝罪した。日本ではいつから美人を美人と評してはいけない社会になったのか。
『美人論』(朝日文庫)の著者で、日本人の外見問題について歴史的な考察を続ける井上章一氏(国際日本文化研究センター所長)が語った。
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女性の容姿に軽々しく触れてはならない、という風潮は近年ますます強まっています。
男性は「キレイですね」と女性に声をかけることは社交面の潤滑油のようなものと考えがちなので、「美人と言って何が悪いの?」と疑問に感じる人も多いでしょう。
一方で女性からしても、“たとえ美人と言われても喜んではいけない”という空気感が蔓延した結果、息苦しさを感じている人がいるかもしれません。
歴史を振り返れば、「美人論」は近代に入って大きく形を変えました。明治政府は江戸時代の身分制度を解体し、華族から平民に至る通婚の自由を認めた。その結果、家柄に対して容姿が圧倒的に優先する契機が生まれて、巷の美人を玉の輿に迎えるケースが急増しました。
文部・司法・内務大臣を歴任した政界の重鎮である芳川顕正は、大蔵省の書記官時代に部下にこう命じたと伝えられます。
〈貴様、役所のほうはどうでもよい。妻を探してくれ。美人であれば、実家は貧乏でもなんでも構わん。早速探してくれ〉
今では考えられないような文言ですが、当時は伊藤博文をはじめとする元勲らが芸者を正妻にして、雑誌は「男子は活力にして女子は修飾なり慰めなり」と書いていたのです。
こうした傾向を忌み嫌ったのが保守層で、前近代的な身分思想を持つ人々は、美人をけなす「美人罪悪論」を唱えました。こちらも驚くべきことですが、実際に明治期の修身教科書には、〈美人は虚栄心のために人生で失敗しやすい。だが不美人のハンディはいくらでも回復できる〉といった「美人排斥論」や「醜婦奨励論」が掲載されました。
しかし大正デモクラシー期になると平等思想が人生論に浸透して、「女はみんな美しい」との美人観が広がります。戦後はさらにこの思想が盛んになり、容姿の美醜を隠蔽する力学が働き、「平等論的美人観」が語られるようになりました。
同時に、異性に対する好みが容姿に左右され過ぎる「面喰い」を、倫理的に非難する傾向が強まりました。
例えば作家の堀寿子は、1976年の著書『女性のやさしさ120章』でこう書きました。
〈女性の魅力を計るのに美人という物指しかもてない男性は幼稚なのです〉
こうして、女性の容姿の美醜に言及しにくくなりました。