日本シリーズそっちのけで話題を振りまくのが、日本ハム監督に“電撃就任”した新庄剛志氏だ。ド派手な服装、独特の“新庄節”、確かな野球センス──「宇宙人」と呼ばれる新庄氏の手腕に期待が集まるが、この異端の野球人はどのように育てられたのか。10年前に亡くなった父・英敏さん(享年70)が、本誌・週刊ポストに明かしていた新庄氏の歩みとは。【全3回の2回目】
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1989年にドラフトで阪神から5位指名を受けプロ入りした新庄は、1992年に甲子園に「亀新フィーバー」を巻き起こしたが、1995年オフに当時の藤田平・監督と衝突するなどして突然の“引退宣言”で物議を醸した。この騒動については、英敏さんは「昔から行き当たりばったりのところがあって、深くモノを考えないんです」と話していた(英敏さんの発言は、週刊ポスト2001年2月9日号掲載・以下同)。
「“庭師になる”なんて言って、何も考えずに引退を表明したわけですから。あの時は、家内が“お父さんが危篤だ”と伝え、剛志は“僕のせいでオヤジの具合が悪くなった。もう一度、野球をしている姿を見せたい”と引退を撤回して、涙の会見で阪神に残留したんです」
実際には息子を思い留まらせるための“仮病”だったとも明かしていた。
「会見後に記者が福岡まで私のコメントを取りに来たところ、私が元気で中洲を飲み歩いているのが見つかってしまった。私は“飲み歩くのが私の病気”と言い訳しましたけど、ダメでしたね(笑)」
1998年オフには「ID野球」でヤクルトを日本一に導いた名将・野村克也氏が阪神監督に就任。野村監督の発案で“二刀流”に挑戦したり、敬遠球をサヨナラ安打にしたりと鮮烈な印象を残した。
「新聞では不仲と書かれていましたが、野村監督のもとでプレーした2年間でずいぶん成長したと思いますよ。投手の経験をさせてもらったお陰でちょっとは頭を使って野球をするようになった。1年を通じて4番を打たせてもらったことでも自信がついたようです」
ただ、新庄氏の“宇宙人”ぶりには、野村監督も驚いていたようだと英敏さんは話していた。
「剛志は、野村監督の言っていることをいちいち聞いていたら体を壊してしまうと言っていたね。剛志が子供の頃から私は、“他人の話は聞くだけ聞きなさい。それで役立つことだけ覚えておけばいい”と言ってきたが、それを実践したようです(苦笑)。野村監督のようなタイプは苦手だったと思うが、うまく教えを吸収したんじゃないかと思っています。ただ、野村監督が1時間近くミーティングをしている途中に、剛志が“監督、このあたりでやめときましょうよ。覚えきれないです”と言ったそうで、その時は“おまえみたいなヤツは初めてじゃ”と言われたそうです」