2021年9月8日14時11分。遠藤和(のどか)さんが、ステージIVの大腸がんとの闘病の末に息を引き取った。24歳だった。2018年、21歳でステージIVの大腸がんであると宣告を受けた和さん。真っ先に考えたのは「子供を産みたい」ということだった。
抗がん剤治療を始めると、副作用で不妊になる場合があると告げられた彼女は、すぐに「卵子凍結」を考えた。しかし、卵子を採取するためには、抗がん剤治療の開始を遅らせなければならない。さらに妊娠した場合は、その最中に行えるがん治療の選択肢も狭まることになる。その間にがんが進行してしまうかもしれなかった。
〈治療が遅れて死ぬのは嫌だ。でも、そのまま抗がん剤治療する道を選んで、赤ちゃんを諦めるのも、ありえない。〉(遠藤和さんの著書『ママがもうこの世界にいなくても』=12月1日発売より。以下同)
和さんは、卵子凍結を望んだ。迷いがないわけではなかったが、強い思いで決断した。家族仲のよい環境で育った和さんにとって、結婚して母になることは幼い頃からの夢だった。どうしても、子供がほしかった。夫の遠藤将一さんが振り返る。
「結婚を考えていましたが、あのときはまだ恋人でした。和からは『遠藤さんとの子供がほしい』と言われました。でも僕は、すぐに治療を始めてほしかった。何よりも和に生きてほしかったし、生きるか死ぬかの話なのに子供とか言っている場合じゃないでしょ、とも思いました。授かるかわからない子供を待つより、治療をして、自分の身体を大事にしてほしいというのが率直な気持ちでした」(遠藤将一さん)
和さんの両親も、将一さんと同じように考えていた。和さんの母・千春さんはこう語る。
「夫は、そうでしたね。親としては目の前にいる娘が大事だから、と卵子凍結より治療を優先してほしいと考えていました。よくわかりますし、私だって全面的に賛成というわけではありませんでした。でも、ずいぶん悩んだ末に、和から『赤ちゃんを諦めたくない』と相談されたときには、一番大事なのは和の気持ちだ、と思って。あなたが希望を持てるなら、お母さんは味方になるよ、と伝えました。和の思いの強さに、夫も最後は納得して、応援すると決めました」
和さんは、将一さんと何度も話し合いを重ねた。
「最終的には、僕も卵子凍結に賛成しました。1回だけです。もし採卵できなかったり、人工授精がうまくいかなかったときには、子供を諦めて、自分の身体の治療に専念する。和とそうやって約束しました」(将一さん)
〈私は、死ぬときまで卵子凍結を決めたことを後悔しません。やれることは全部やったと思えるのと、そうじゃないのは、全然違うから。〉
──遠藤和さんは前掲著『ママがもうこの世界にいなくても』の中でこう綴っている。
卵子凍結を経て、和さんは2019年12月に将一さんと結婚式を挙げた。