1975年に発売された太田裕美の『木綿のハンカチーフ』は、昭和を代表するポップスとして、長く愛され続けている。椎名林檎、宮本浩次、橋本愛ら、多くのアーティストにカバーされるこの名曲は、どうやって生まれたのだろうか。ディレクターとしてこの曲を手掛けた白川隆三さんに話を聞いた。
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私にとって太田裕美さんはディレクターになっていちばん最初に担当したアーティスト。『木綿のハンカチーフ』は4枚目のシングルで、アルバムからカットされた楽曲です。
都会と地方を題材にした物語は、作詞の松本隆先生いわく、私をモデルにしたのだそうです。私は福岡県北九州市の出身で、父方の出身が田川という炭鉱町。中学生の頃は炭鉱が衰退していた時代で、ローカル電車のホームでは集団就職のために都会へ出て行く家族や恋人を見送る人たちの姿をよく目にしました。その話を何回か松本先生にお話ししたので、それが印象に残っていたのかもしれません。
この曲は詞先で歌詞が4番までと長い。作曲した筒美京平先生が困り果てて、夜、私に電話をしたらしいんですが、当時は固定電話で、原宿で飲んだくれていた私がつかまらなかった(笑い)。翌日、「思った以上にいい曲ができた」と言ってもらえたからよかったですが、ケータイがあったら曲が変わっていたかもしれないですね(笑い)。
レコーディングの際、私が太田さんにお願いしたのは「あまり心情的に歌わず、とにかく明るく歌ってほしい」というその1点だけ。明るく歌うことで女性の純朴さや最後のフレーズが生きてきて、ぐっと心に響くと思うんです。