ドラマや映画、CMなどテレビで見ない日はない、水谷豊(69才)。俳優のトップランナーとして、常に主演を張り続けているが、その道のりは決して平たんではなかった。俳優歴50年を超える彼の素顔をよく知る人たちの証言から追った。【全3回の1回目】
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16才のとき特撮ドラマでいきなり主演を飾る
水谷は子供の頃からかなりのテレビっ子だったと言うのは、社会学者の太田省一さん。
「幼いながらに、『どうしてこんな小さな箱の中に映像が映し出されているんだろう』と不思議に感じ、『いつか自分もこの箱の中に入ってやろう』と思ったと、2008年の『SmaSTATION!!』(テレビ朝日系)で、話しています」(太田さん・以下同)
北海道・芦別生まれの水谷は、父の仕事の関係で、8才のとき、東京・立川市に引っ越した。転機は12才のとき。
「立川で、水谷さんをかわいがってくれていた近所に住む女性から、児童劇団『劇団ひまわり』のパンフレットをもらい、即座に入団。すぐに舞台に出演するようになり、子役として活動を始めます。当時は山崎努さんや岸田今日子さん、橋爪功さんなどと共演したこともあったそうです」
16才のときに大きなチャンスを掴む。特撮ドラマ『バンパイヤ』(1968年)で800人の応募者の中から主役に大抜擢され、順調に俳優人生をスタートさせていく。
子役出身であることは、「いまもなお水谷さんの根底にある」と、映像ディレクターの池澤辰也さんは言う。
「事あるごとに、『ぼくは子役出身だからさ』と、おっしゃるんです。ドラマの現場で子役出身の役者さんと一緒になると、『ぼくたち、子役あがり保存会だから』なんて、茶目っ気たっぷりに言いながら、すごく喜ばれるんです」(池澤さん)
1970年には、岩下志麻(80才)主演の『その人は女教師』で映画デビューも果たし、そのまま勢いに乗って活躍するかと思われた矢先、突如、水谷は芸能界から姿を消してしまう。
突然の家出、そして…
思春期を迎えた水谷は、なんと引退を考え始めていたのだという。その決意は固く、1970年には『劇団ひまわり』を退団。アメリカの大学への進学を目指し、猛勉強を始めたのだ。だが、受験を前に父の会社が倒産。アメリカ行きを諦めた彼は、日本の大学受験を試みるも、失敗してしまう。その心の傷はとても大きかった。
「目の前の道が閉ざされてしまった彼は、18才のときに家出をします。所持金はわずか400円。野宿をするも寒さで寝付けず、偶然出会った男性に世話になったり、山中湖畔のドライブインで住み込みのアルバイトをするなどして2か月間を過ごしたそうです」(太田さん・以下同)