ド派手なパフォーマンスで世間の耳目を集め続ける日本ハムの“ビッグボス”となった新庄剛志氏。すでに球団に莫大な宣伝効果をもたらしている新庄氏の監督としての報酬は「推定年俸1億円」とも報じられている。そんな新庄氏の現役時代、契約交渉にあたった経験のある当事者からは、新庄氏が「お金に執着しない」という証言が──。
新庄氏は阪神在籍時代の1992年、甲子園に「亀新フィーバー」を巻き起こして大ブレイクすると、年俸は460万円から2200万円に大幅アップ(年俸は推定額、以下同)。その後、減俸となった年も挟みながら、2000年には看板選手として年俸7800万円に達していた。同年の8月にはFA権を取得し、11月には行使してFA宣言。
この時に、残留交渉にあたったのが当時の阪神球団常務で後に球団社長となる野崎勝義氏だった。
「もともと、新庄君はお金にこだわらない選手でしたね。そういう面については、こちらが“もう少し(高い年俸を要求して)親孝行すればいいのに”と見ていたくらいです。本当に、お金にはさっぱりしていましたね。それまでの毎年の契約更改もスムーズにいっていました。新庄君と直接話をして交渉にあたったのは、2000年にFA宣言した時でしたが、この時も(判断基準は)お金じゃなかった。物事に執着心がないというか、さっぱりした性格の好青年だと感じたことを覚えています」
2000年シーズンの新庄氏は、131試合に出場して前年を上回る打率.278、28本塁打、85打点という成績を残していたことから、阪神は巨額オファーを用意して残留交渉にあたっていた。
「5年12億円という数字を提示していましたから、残ってくれるものと思っていました」(野崎氏)
当時、新庄氏の移籍先候補として囁かれていたのは横浜やヤクルトだったが、他球団の提示した額よりも、阪神が好条件だったとされる。だが、新庄氏が選んだのは巨額オファーの阪神ではなく、メジャー移籍の道だった。
その契約内容は、年俸20万ドル(当時は約2200万円)という当時のメジャー選手最低保障額に出来高払いがつくというもので、契約金の30万ドル(同約3300万円)を合わせても、阪神の提示額からは文字通りケタ違いに少ない。
それでも、メジャー移籍の道を選んだ新庄氏。移籍先のメッツでの活躍は注目を集め、移籍翌年の2002年には年俸135万ドル(同約1億3500万円)となり、初めて年俸1億円を突破したが、新庄氏にとってはそれすら、とくにこだわりのある数字ではなかったのかもしれない。