オフの話題を席巻する日本ハムの“ビッグボス”こと新庄剛志監督。阪神入団当時は人気選手でありながら“問題児”のイメージもついて回った。実際にはどんな人物だったのか。新庄氏を間近で見ていた男たちの証言──(全3回の第2回)。
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1988年のドラフト1位で入団した、新庄氏より2年先輩の中込紳氏の回想でも“セット”で登場したのが、亀山努氏だ。センター・新庄とライト・亀山の右中間コンビがチームを引っ張り、92年にチームは久しぶりに優勝争いを演じる。「亀新フィーバー」の当事者である亀山氏はこう語る。
「当時、チームは暗黒時代だったが、僕ら若手にとってはチャンスだった。チームの転換期で、1985年の日本一メンバーと若手が混在していた。だから、チームがどうこうではなくポジションを奪うために必死で戦った。1992年はラッキーゾーンが撤去された年で、球場が広くなったから機動力を生かそうという話になっていた。そういう意味では僕や新庄にとっては千載一遇のチャンスだった」
そうしたなか、新庄氏はセンターに定着。そこには幸運もあったという。
「僕も運がよかったけど、新庄はもっと運がよかった。あの年はロースター枠(開幕一軍40人枠)があって、新庄は外れていたんです。ファームで大型内野手として育てるという構想だった。ところが、ロースター枠に入っていた嶋田(章弘)さんが左手首骨折で新庄がメンバー入り。5月にはサードを守っていたオマリーが骨折して、新庄が代役でスタメン出場。その試合で初打席の初球をレフトスタンドに本塁打ですからね。“持っている”のは間違いない。
新庄は野球に対しては真摯で、グラウンドでは野球の話ばかりでしたね。常にポジショニングとかについて話していた」
そうしたなか、新庄氏を悩ませていたのが、マスコミの取材攻勢だった。
「今はマスコミをうまく使っていますが、昔の新庄はマスコミが嫌いで、取材も受けなかった。関西のスポーツ紙はチームが強くなるほど、選手のプライベートに踏み込んでくる。勝つと選手の私生活に踏み込み、負けが込むと批判に転じる」