オフの話題を席巻する日本ハムの“ビッグボス”こと新庄剛志監督。阪神入団当時は人気選手でありながら“問題児”のイメージもついて回った。実際にはどんな人物だったのか。新庄氏を間近で見ていた男たちの証言──(全3回の第3回)。
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阪神タイガース在籍時の1995年オフに新庄氏は突然、“引退宣言”をブチ上げ、その後に撤回。翌年には藤田監督が途中退任したが、その年に阪神電鉄から阪神タイガースの球団常務に出向したのが野崎勝義氏だ。2001~2004年は球団社長を務めた。野崎氏の記憶に強く残るのは、2000年オフ、FA権を取得した新庄氏との残留交渉だ。
「新庄君はマスコミへの不信感を持っていた。周囲に“野村(克也)監督には感謝しているが、阪神にはいたくない”“周囲の状況が騒がしくて野球に集中できない”と漏らしていたそうです。野村監督も“ここは新庄の気持ちを大切にしよう”と積極的に引き留めには動かなかった」
新庄氏と野村氏の関係もまた、不思議なものだったという。
「野村監督は新庄君の味方だし、新庄君も野村監督を慕っていた。2人の関係は面白くて、ビジター用のユニフォームをマイナーチェンジする時に、野村監督は新庄君のアドバイスを参考にしていましたね。背中に名前を書かないほうがすっきりすると言われ、タテジマをなくして背番号だけにしたことがあった。野村監督がヴェルサーチェを着るようになったのも新庄君の助言。そういう話を2人でやっていましたね」
当時、移籍先として横浜、ヤクルトが挙がっていたが、ホテルに呼び出された野崎氏は、新庄氏の告白に度肝を抜かれた。
「移籍が噂されていた横浜は森祇晶さんが監督に就任することになり、森監督の管理野球では実力が出せないから移籍を諦めていたとも聞いていました。ヤクルトも外野のポジションに空きがない。5年12億円という巨額のオファーをしているのだから、残留するだろうとタカをくくっていた。
しかし、ホテルに出向くとメジャー移籍の決断を聞かされた。想定外のことで、絶句しましたよ。のちに聞けばメッツの年俸は20万ドル(約2200万円)。時代も変わったと思ったが、その席で“強いチームを作ってくださいね”と笑顔で言われたのがずっと残っています」
6年後の2006年、宮崎で開催されるオールスターの際に野崎氏は宮崎空港でたまたま、日本ハム移籍後の新庄氏と再会した。
「その時、新庄君は“社長、タイガースは強くなりましたね”と話しかけてくれたんです。心底喜んでくれたようで、嬉しかったですね。メジャーや日本ハムでプレーしてひと回り大きくなったと感じました」