2月のキャンプインを前に、新人選手たちが続々と入寮している。1月7日には、巨人から育成ドラフト6位で指名された菊地大稀(桐蔭横浜大)が、川崎市のジャイアンツ寮に入寮した。菊地は新潟・佐渡島出身者で初のプロ野球選手だ。ここに至る道のなかでは、プロ野球の“レジェンド”の地道な取り組みに背中を押されていた──。
菊地は2014年に、全国の離島の中学が一堂に会する「離島甲子園」に佐渡市選抜として出場した経験を持つ。同大会の開催に尽力してきたのが、ロッテのエースとして活躍し、“マサカリ投法”で知られる村田兆治氏(72)だ。
「きっかけは引退翌年の1991年に日本海に浮かぶ新潟・栗島の少年球児の親御さんから“子供たちに本物の剛速球を見せてほしい”と手紙をもらったことでした。島を訪れると部員は15人しかいない。そこで初めて、対外試合どころか、紅白戦もできない離島の厳しい現状を知りました」
村田氏はスーツの上着を脱ぎ、ワイシャツ姿でピッチングを見せた。子供たち全員を打席に立たせ、本気でボールを投げ込んだ。「島の子供たちに本物の凄さを見せることで、“本気でやっていると、いつかいいことがある”と伝えたかったんです」と村田氏は振り返る。
後日、子供たちから「父のあとを継いで漁師になります」「病気で苦しんでいる人のために医師になりたい」といった手紙が届いたのだという。村田氏が続ける。
「自分の思いが伝わったのが嬉しかった。それから全国の離島を手弁当で回ることを決意し、プロで挙げた215勝を目標に、北は礼文島から南は与那国島まで215の離島を回って野球教室を行なおうと決めました。北海道南西沖地震と津波に襲われた奥尻島では、子供たちに“絶対に負けるな”と140キロの速球を投げ込みました。
50か所の離島で合計100回の野球教室を開催した時、楽しむ子供たちの姿を見て『離島甲子園』を思いつきました。離島を持つ自治体に参加を呼びかけ、2008年に奥尻島や三宅島などから10チーム200人が参加して第1回大会を開催しました」
単独のチームに限るのではなく、複数の中学の合同チームやクラブチームを中心した選抜チームなども参加可能というかたちで条件を緩やかにした。国交省や内閣府からの後援も受けるようになり、離島がある自治体の支援も集まった。多くの企業が協賛し、球児たちは遠征費ゼロで参加できる。予選もないため参加チーム数は年々増えていった。
「大会は離島が持ち回りで開催しています。東京ドームや福岡ドームに集めて、ということも考えましたが、持ち回りで開催することでお互いの離島の実態もわかる。同じ境遇にあることを共感し、新たな交流のきっかけにもなる。レギュラーの9人が揃わず、別の離島の選手に加わってもらうチームもある。
大会はトーナメント制で優勝を争うが、負けたチームは最終日まで残って交流戦を行なう。決勝戦では負けたチームの球児たちが応援に回っています。チームを超えて一体感が生まれる。大会終了後は元プロ野球選手による野球教室をやります。離島には指導者も少ない。まずは故障をしないための練習方法を教え、そのうえで技術を指導して野球を強くさせたい。そのため、離島の指導者のほうに野球を教えることも珍しくありません」(村田氏)