漫画家・水島新司さん(享年82)が1月10日、肺炎のため都内の病院で亡くなった。『ドカベン』や『野球狂の詩』など歴史に残る野球漫画を世に送り出した水島さんの訃報に、球界からも哀悼の意を表するコメントが続々と寄せられた。数多くの作品のなかでも水島さん自身が応援していた球団「南海ホークス」を描いた漫画『あぶさん』は、その緻密な取材やホークスの選手たちが実名で登場することなどで長く愛されてきた。
1969年ドラフト7位で南海に入団し、『あぶさん』の登場人物にもなった堀井和人氏(73)。作中では球団スカウトだった父・数男氏と“親子競演”も果たした堀井氏が、水島さんとの思い出を振り返る。
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ノムさん(野村克也氏)がプレーイングマネージャーになって、何年か経った頃に初めて田辺キャンプ(和歌山)に水島先生がいらっしゃったと記憶しています。球団の上層部は『あぶさん』の連載企画が進んでいることを知っていたようですが、選手レベルでは作品のことも先生の素顔も知らなかったので、あの風貌だし“なんやあのおっさんは……”という感じでした。
しばらくして南海を舞台に野球漫画を描いてくれるというのが分かったのですが、その頃にはグラウンドで選手と一緒に走られていましたね。キャンプには息子さんも連れてこられたりして、和気あいあいとやっていました。先生も昔、野球をやられていたそうですが、走っても投げてもさまになっていましたよ。髪の毛はボサボサだったから雰囲気は野球選手らしくなかったですが、動作では周囲に溶け込んでいました。
『あぶさん』では、当時人気がなかった南海をテーマにして、それもエースやスター選手だけでなく、控え選手や裏方まで実名で描いてくれてありがたかったです。僕のような控えの選手も特集してもらいましたし、当時、南海のスカウトをしていた親父と親子で登場させてもらったりして嬉しかったのを覚えています。
そういえば、本当に事実に忠実な作品だと驚かされた思い出がありました。水島先生が取材をされる時、連れていたお弟子さんたちが写真を撮っていました。親父がスカウトとして登場した際は、自宅にカメラマンがやってきて応接間をパシャパシャ撮るんです。するとうちの応接間がそっくりそのまま漫画で出て驚きました(笑)。
僕は大阪・ミナミで店をやっているんですが、亡くなったと聞いて店に先生が描いた絵を飾らせてもらいました。飾るといえば、大阪スタジアムのライトスタンドには水島先生が自腹で『あぶさん』の看板を出されていましたね。あぶさんこと代打の切り札・景浦安武のモデルになった選手は何人かいたそうですが、すべて水島先生の想像ですからね。景浦のように飲んべえで酒が強い選手はたくさんいましたが、あんなに格好いい選手は南海には見当たらなかったですよ(笑)。