“東洋の魔女”を率いた希代の名将・大松博文。“鬼の大松”はいかにして女子バレーボールチームを最強の軍団に育て、世界の頂点へと導いたのか。選手だけが知る厳しさだけではない素顔から、歴史的快挙の裏側を伝える。(前後編の前編)
1961年、大日本紡績株式会社貝塚工場(通称、ニチボー貝塚)の女子バレーボールチームに世界が震撼した。ブルガリアやルーマニアなどを巡る欧州遠征で、破竹の22連勝を遂げた彼女らを、海外メディアは「東洋の魔女」と称賛した。翌年には世界選手権で優勝。金メダルを獲得した1964年の東京五輪では、全5試合で落としたセットはわずか1セットという圧倒的な強さを見せつけた。
各国のナショナルチームを相手取り、一企業の女子チームを世界一に導いたのは監督の大松博文。苛烈な練習を課したことから「鬼の大松」と呼ばれた。日中は社員として働き、16時頃から始まる練習は、深夜1時、2時。朝までおよぶことも少なくなかった。
大松の打ち込むスパイクを受け続け、動けなくなってもさらに打ち込まれる様はメディアでも取り上げられ、ニチボーの労組が抗議したほどの過酷さだった。最年少メンバーとしてベンチにいた篠崎洋子は、当時をこう振り返る。
「動けなくなった宮本恵美子選手のもとに大松先生が歩み寄って『もうあかんのか』と詰め寄ったことがありました。宮本さんは『うち、丑年ですねん』と答えて(笑)。もうダメといわずに、その受け答えで数秒休んでいたんです。先生も『何を言っているんだ』と笑って戻って、練習再開。決して張り詰めてばかりの練習ではありませんでした」
当時を知るメンバーはいずれも「(大松)先生は懐の広い人だった」「ボールは飛んできたけど、手をあげられたことは一度もない」と口を揃える。主力メンバーの半田百合子も同様だ。
「できなかったことができるようになるのは楽しい。難しいところの球を拾えたら嬉しいんです。できるようになるまでが、大変なんですけどね(笑)」
厳しい練習のなかで、監督と選手との間に深い信頼が築かれていた。それはレシーバーのポジションでチームを支えた松村好子の次の一言からもうかがえる。
「オリンピックが終わっても先生がバレーをされると言うなら、私も続けるつもりでした。当時、私は22歳でしたけど、先生がやめたから、やめたんです」