今から半世紀前、1972年札幌五輪70メートル級ジャンプで日本が金銀銅のメダルを独占した。冬季五輪史上、日本の戦後史に燦然と輝くこの空前絶後、唯一の記録だ。“日の丸飛行隊”はなぜ世界の誰よりも高く、そして遠くへ飛ぶことができたのか。【前後編の前編】
「さあ、笠谷。金メダルへのジャンプ……飛んだ、決まった! 見事なジャンプ!」
1972年2月6日、札幌五輪スキージャンプ70メートル級で笠谷幸生が金、金野昭次が銀、青地清二が銅を獲得した。NHK北出清五郎アナウンサーの名実況が響き渡り、『日の丸飛行隊』の快挙に全国が歓喜に包まれた。“7人の侍”と呼ばれたジャンプメンバーの1人である板垣宏志氏が当時を振り返る。
「以前はコーチも帯同せず、1人で海外遠征に行くなど自己流の調整をしていました。でも、札幌でメダルを取るため、強化体制が整った。3年くらい毎月10日間ほど合宿が組まれ、(幸生の兄である)笠谷昌生コーチの提案でウエイトトレーニングも取り入れました」
周到な準備と最先端の練習法が功を奏し、直前の欧州ジャンプ週間で笠谷が3連勝。新記録の4連勝を前に日本選手団は帰国した。
「諸外国は驚いたでしょうね。それほど札幌に懸けていました。他の選手が『笠谷さんに少しでも追い付けば、世界に通用する』と自信を持てたことも大きかった。70メートル級前日にメンバーが7人から4人に絞られて私は漏れましたけど、自分のことよりも絶対誰かに日の丸を掲げてほしいと願っていました」(板垣氏)
この年、欧州は雪不足で満足な練習ができなかった。日本は五輪2か月前から自衛隊のトラック300台で雪を運び、本番と同じ宮の森競技場で毎日練習を重ねていた。テストジャンパーを務めた若狭実氏が語る。
「会場下のホテルに多数の関係者が宿泊して、毎朝4時から助走路の整備をしました。8時になると、僕ら12人が順に飛んで、スキー板がピッタリと収まるような溝を作るまで何度もやり直しました。選手が万全の体制でジャンプできるようにしました」
スキー界が一丸となり、“日の丸飛行隊”は事前の練習量で他国を圧倒。冬季五輪で日本唯一の“表彰台独占”が生まれた。
(後編につづく)
取材・文/岡野誠
※週刊ポスト2022年2月11日号