半世紀前の1972年、札幌五輪70メートル級ジャンプで日本が金銀銅のメダルを独占した。しかしその後、世界の頂点を極めた“日の丸飛行隊”の前には、見えない壁が立ちはだかった。苦節26年、長野五輪での復活まで道のりは長く険しいものだった。【前後編の後編】
光と影は常に交差している──。札幌五輪ジャンプ70メートル級で表彰台独占の快挙に沸く日本チームで、唯一落ち込んでいた男がいた。笠谷幸生に次ぐメダル候補に挙げられ、1本目に81メートルを飛んで4位に付けたものの、2本目で失速して23位に終わった藤沢隆である。当時“7人の侍”と呼ばれたジャンプメンバーの1人である板垣宏志氏が語る。
「その夜、コーチの部屋に集まって祝勝会をして、私も笠谷さんの金メダルを首に掛けさせてもらったりして、みんなで喜んでいました。でも、藤沢さんはその場にいなかった」
日本中が余韻に浸る2月11日、“ジャンプの花形”90メートル級が行なわれた。夢の再現が期待される中、70メートル級銅メダリストの青地ではなく、板垣が出場した。
「たしかに公式練習では私のほうが飛んでいました。青地さんも『宏志、頑張れよ』と応援してくれた。選ばれたことに今も感謝しています。ただ、“メダリストの代わり”は大きなプレッシャーで、結果も19位でした」
ヒーローの胸にも挫折が刻まれている。笠谷は1本目で2位につけたが、2本目に大倉山独特の突風に煽られて7位に沈んだ。試合後の「残念です」という一言に悔しさが滲んだ。大会後、表彰式やパーティーに出席するたび、金メダルの祝福とともに「90メートル級は惜しかったですね」と声を掛けられ、後悔は増幅した。次のインスブルック五輪で雪辱を期したが、メダルに遠く及ばず引退。同大会に出場した若狭実氏が振り返る。
「札幌の時と比べて合宿や海外遠征も減りましたし、どうしても自国開催の反動があったと思います」