日本が、そして世界が注目する戦いがいよいよスタートする。男子フィギュアスケートで羽生結弦(27才)が3連覇に挑むが、ここに至るまでには幾多の困難が立ちはだかった。羽生の人生におけるターニングポイントはどこだったのか。(全5回の第4回)
誰よりもきめ細かい心を持つ羽生の、スケート人生を変えた出来事がある。2011年の東日本大震災だ。震災発生当時、羽生は仙台のスケート場で練習に励んでいた。足元の氷が大きく揺れ、リンク横の壁が崩壊するなか、四つん這いでその場から逃げ出した。一家は避難所での生活を余儀なくされ、1つのおにぎりを家族で分け合った。倒壊したリンクは閉鎖され、それまでの日常を失った羽生はスケートをやめることも考えた。
《もうスケートはいいんだ、と思いました。『こんな地震が起きちゃったんだし、僕はもうしょうがない。こんな苦しい思いをしたうえに、スケートで苦しい戦いなんて、もうしなくていいよ。普通の高校生になって、普通に生活したいよ』ってすごく思った》(『蒼い炎』より)
だが、羽生をよみがえらせたのもまた、スケートだった。震災復興支援のチャリティーアイスショーの出演依頼を受けた羽生は、「リンクに立って、皆さんに滑りを見てもらうことで被災地の復興を支援したい」と参加を決める。都築章一郎コーチを頼りに、母親とともに神奈川・横浜にあるスケートリンクに泊まりがけで通って練習に励み、全国各地で行われた約60回に及ぶアイスショーに出演した。
ハードスケジュールで体力が持たず、ベストを出し切れなかったこともある。しかし、ひとりでリンクに出て、声援を浴びると、「どんなことがあっても滑り続けたい」という気持ちが湧いたという。
全国行脚中、あるアイスショーで、羽生は珍しくミスをした。すると演技終了後、羽生は舞台裏でうずくまり、何事かをブツブツとつぶやいた。その顔には自分への怒りがにじみ、肩は震えていた。その日のフィナーレで再び出番が回ってきた際、羽生は当時まだ完全に自分のモノにしていなかった4回転トーループに果敢に挑み、見事に成功させた。ソチ五輪ペア日本代表で、大会やアイスショーの遠征で羽生と行動していた高橋成美さん(30才)はいう。
「ゆづはいつも、疲れていてもけがをしていても、本番はビシッと決めてくるんです。だから、“ゆづでも失敗するんだなあ”と意外でした。もちろん誰も責めたりなんかしないのに、ひとりでうずくまって悲しんでいて。その怒りや悲しみのエネルギーを意味のない方向ではなく、スケートにぶつけて昇華させるところはすごい」(高橋さん)
被災体験を経て、フィギュアスケーターとして心身ともに成長した羽生は2012年に練習拠点をカナダ・トロントの「クリケットクラブ」に移す。バンクーバー五輪金メダリストのキム・ヨナ元選手も育てたブライアン・オーサーコーチに師事した。迎えた2014年2月のソチ五輪。羽生は公式大会史上初の個人ショートプログラムで100点超えを果たし、アジア男子初の金メダルを獲得した。