放送作家、タレント、演芸評論家で立川流の「立川藤志楼」として高座にもあがる高田文夫氏が『週刊ポスト』で連載するエッセイ「笑刊ポスト」。高田氏が、芸能界で一番古い知り合いの三遊亭円楽についてつづる。
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私の周りも心配ごとが様々。「氷川きよし活動休止」。私のラジオにも本当によく来てくれて私もコンサートへ何度も駆けつけ、互いに冗談も言える仲になっていた。『箱根八里の半次郎』でデビューする半年も前から私の番組で曲を流しつづけた。リスナーからは「なんでこの時代に股旅?」といぶかしがられた。が、あの通りの大ヒットである。氷川クンには氷川クンの人生がある。自分の決めた道を「限界突破」でつき進めばそれでいい。
「三遊亭円楽 脳梗塞で入院」。これまたびっくりニュース。脳が高速でまわるのかと思ったがそうではないらしい。円楽はこの芸能界で私にとって一番古い知り合いかもしれない。日芸の落研だった田島(のちの右朝)と高田が話していた。
田島が「噺家になるとしたら、誰のところへ行く? 高田は明るいから志ん朝師匠のところが一番いいな。オレは理屈っぽいから談志師匠のところへ行くかな」(真逆になったが)。話しているとひとつ年下で青学の落研にいる会(あい)クンが「先輩方お先に失礼。あたし円楽のところに入門しましたんで」という。エッ!? あの時代「よりによっての円楽」とおどろいた。ネタの作家やらカバン持ちのバイトをしていた会クンが「楽太郎」と名付けられた。
1年後、私は人気放送作家の塚田茂についてフジテレビの廊下を歩いていた。向こうの奥からテレビスターでもあった円楽について歩いてくる楽太郎が見えた。楽ちゃんは茶目っ気たっぷりに「イヨッ大先生」と私に声を掛けた。すかさず私は「イヨッ大師匠!」。近づいたふたりは本当の先生と師匠の目を盗んで小声で「いつかお互いそう呼ばれて生きてみたいネ」と小突きあって別れた青春の23歳。あれから50年である。
いくらでも座布団あげるから、楽ちゃん、もう少しガンバッてくれ。あの日、我々が目指した憧れの志ん朝も談志も円楽も今はいない。