『愛の讃歌』(越路吹雪)、『男の子女の子』(郷ひろみ)など、数々のヒット曲を世に送り出した作詞家・岩谷時子(享年97)。どのような思いを詞に込めていたのだろうか。『愛の讃歌』を手がけてから70年目を迎えるいま、彼女と親しかった人々の話から探ってみよう。(本文中一部敬称略)【全3回の第2回】
越路吹雪とともに東京へ
太平洋戦争が終わり、宝塚歌劇団は新しい局面を迎える。優秀な団員やスタッフが東京の映画会社から引き抜かれるようになったのだ。
その波に乗り、1951年、越路吹雪は宝塚歌劇団から東宝へ移籍。東宝を選んだ理由は、宝塚歌劇団の創設者・小林一三の長男が社長を務めていたからだ。
小林は「越路吹雪をひとりで東京に行かせるのは危ない」と、宝塚歌劇団の出版部の所属だった岩谷時子を付き人にして東京へ送り出したという。
2人が東京にやってきた翌年の1952年に、突然、岩谷に訳詞の依頼が舞い込む。それは、1951年に越路が出演した舞台『モルガンお雪』の劇中で歌った英語の歌『ビギン・ザ・ビギン』を日本語に訳す仕事だった。英文科を卒業していることや、戦時中、雑誌の余白に自作の詩を載せていたことを知っていた越路が、岩谷を推薦したのだ。
岩谷の訳詞は評判を呼ぶ。そして次々と海外の曲の訳詞を担当するようになっていく。
なぜ、彼女の訳詞が評判を得たのか。何度も岩谷に取材をした経験を持つ音楽評論家の田家秀樹さんは、次のように分析する。
「岩谷さんの訳詞はいわば、意訳です。原語を直訳すると、越路さんの雰囲気に合わなくなってしまう。彼女は原語の世界を大切にしつつも、“越路さんにはこんな歌を歌ってほしい”と願って訳していた。それは、岩谷さんが越路さんのファンの代表だったからだと思います」
そんな2人の関係を背景に生まれたのが、越路版『愛の讃歌』だ。