『愛の讃歌』(越路吹雪)、『男の子女の子』(郷ひろみ)など、数々のヒット曲を世に送り出した作詞家・岩谷時子(享年97)。どのような思いを詞に込めていたのだろうか。『愛の讃歌』を手がけてから70年目を迎えるいま、彼女と親しかった人々の話から探ってみよう。(本文中一部敬称略)【全3回の第3回】
越路吹雪の結婚後、ヒット作を連発
1951年に宝塚歌劇団から東宝へ移籍した越路吹雪(享年56)。岩谷時子はそのマネジャーとして行動をともにしていた。そして、越路が出演した舞台『モルガンお雪』の劇中で歌った英語の歌『ビギン・ザ・ビギン』を日本語に訳したことをきっかけに、岩谷は作詞家として歩み始める。
人気作詞家となっても、岩谷は越路吹雪のマネジャーを辞めてはいない。越路は1959年、5才年下の作曲家・内藤法美さん(享年58)と結婚するが、それでも岩谷は越路を献身的に支え続けていく。
岩谷作詞の『いいじゃないの幸せならば』が大ヒットした歌手の佐良直美さんは、忘れられない光景があるという。
「何かの歌番組で越路さんとご一緒したとき、越路さんは、『どうしよう〜、どうしよう〜』と、とっても緊張していたんです。すでに越路さんは大スターでしたが、あんな大物でも緊張するんだなぁと思った覚えがあります。そのとき岩谷先生は、『コーちゃん、大丈夫よ』と、越路さんの背中をさすってあげていました」(佐良さん)
マネジャーとして活動する一方、岩谷の作詞家としての仕事は多忙を極め、数多くの恋の歌を生み出していく。
岩谷が作詞を手がけた『ひとりにしないで』『逢いたくて逢いたくて』などのヒット曲を持つ園まりは、岩谷の歌詞の世界を次のように話す。
「『逢いたくて逢いたくて』は片思いの曲ですが、これを歌ったとき、私ははたちそこそこで、恋愛経験がなかったんです。片思いすら、どんなものか理解できないほど奥手でした。
作曲された宮川(泰)先生から『もっとセクシーに歌うように』と言われ、手ほどきを受けて、色っぽく歌うようにしていたので、最初は男性からの人気が高かったんです。
ただその後、ある映画で共演した俳優さんに片思いして、ようやく歌詞の意味が理解できるようになりました。
恋を知ってからは、歌番組の収録で『逢いたくて逢いたくて』を歌うと“わあ〜っ”と涙があふれてきて。感情と歌詞の世界観が見事にマッチしてからは、女性ファンが増えたんです。新たな私の一面を岩谷先生に教えていただいた感じです」