山荘に激突する巨大な鉄球、犯人グループによる銃撃の応戦──日本中がテレビにかじり付いた「あさま山荘事件」から50年が経った。あの時、立てこもった犯人たちは何を求め、誰と戦っていたのか。暴走する組織を内部で見ていた元連合赤軍中枢メンバーが、半世紀の節目に事件を振り返った(文中敬称略)。【全4回の第1回】
* * *
コロナによるまん延防止措置で閑散とする静岡市の夜の街でスナックに入った。いつ来ても客はほとんどいない。コロナの感染拡大以来ずっとそうだという。いっそ店を閉めて休業協力金をもらった方が楽なのではないか──そう声をかけると、「私のような人間がお上の世話になるわけにはいかない」と主人は頭を振る。
植垣康博。73歳になる。カウンターには“あの事件”を取り上げた本や漫画。たまに来る客とは決まってこの話題になる。日本中を震撼させたあさま山荘事件からちょうど50年。連合赤軍の元兵士・植垣はずっと自らに問い続けてきた。なぜあの事件は起きたのか。
静岡県内の高校を出た植垣が青森県の弘前大学理学部に入ったのは1967年のことだ。理論物理に興味を持ち、研究者になるつもりだった。1960年代後半、全学共闘会議(全共闘)運動が吹き荒れるなか、植垣は合唱団の活動に没頭するありふれた学生だった。
政治運動とは無縁だったが、大学内に警察が私服刑事を潜り込ませていたことへの抗議活動に関わったことで一変した。1969年9月には仲間らと大学本部を占拠。しかし、突入してきた機動隊に撤退を余儀なくされる。
その頃、植垣は新左翼の党派のひとつ共産主義者同盟赤軍派(赤軍派)と接点を持つ。赤軍派は植垣が爆弾を製造することができると知って声をかけてきた。
「中学の頃にペンシルロケットを飛ばそうと黒色火薬の作り方を見よう見まねで覚えたり、高校時代にダイナマイトの原料になるニトロ化合物を作ったりしていたんだよね。その話が伝わって『作ってくれ』と頼まれた」(植垣)
革命は革命戦争によって実現されると主張する赤軍派は、その遂行には銃や爆弾で武装した軍が不可欠だとしていた。軍事組織の中央軍に入ると、工事現場からダイナマイトを盗み出し、爆薬を詰めた鉄パイプにヤスリで溝をつけて威力を高め、山中で試しに爆発させては改善を繰り返した。さらには、「M作戦」と呼ばれる銀行強盗にも関わった。
(第2回へ続く)
【プロフィール】
竹中明洋(たけなか・あきひろ)/ジャーナリスト。1973年山口県生まれ。北海道大学卒業。NHK記者、衆議院議員秘書、『週刊文春』記者などを経てフリーランスに。著書に『殺しの柳川』(小学館)など。
※週刊ポスト2022年3月11日号