山荘に激突する巨大な鉄球、犯人グループによる銃撃の応戦──日本中がテレビにかじり付いた「あさま山荘事件」から50年が経った。あの時、立てこもった犯人たちは何を求め、誰と戦っていたのか。元連合赤軍中枢メンバーの植垣康博氏(73才)が、あさま山荘事件、逮捕、自白に至るまでを振り返る(文中敬称略)。【全4回の第3回。第1回 第2回 を読む】
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最終的に山岳ベースに集結した連合赤軍29人のうち死亡したのは12人。ひとたび総括を要求されれば生きて戻れない。地獄絵図さながらの山からは逃亡者も出た。そのたびに警察にベースの存在が発覚するのを恐れて榛名山から迦葉山、妙義山と群馬県内で絶望的な逃避行を続けた。
1972年2月17日、森恒夫と永田洋子が警察に逮捕。植垣ら残るメンバーは雪の県境を越えて長野県へと逃げた。凍傷で痛む足を引きずりながら歩くうちに、軽井沢のレイクニュータウンに迷い込んだ。
植垣は物資調達のため軽井沢駅に出るが、長い山での生活による悪臭を不審に思った売店従業員の通報で駆けつけた警察官により逮捕。手錠を壊すほど抵抗し、その時の傷跡は今も左手首に残る。
あれから50年後の軽井沢を訪れた。連合赤軍が迷い込んだレイクニュータウンは今では古い別荘ばかりだ。当時、西武グループが中産階級向けに分譲を始め、高度経済成長で生活に余裕が出たサラリーマンの間で飛ぶように売れた。もはや革命を求める状況になかった象徴というべき場所か。そんなところに迷い込んだのは皮肉というより他ない。
植垣らの逮捕を受けて警察の一斉捜索が始まり、残るメンバー5人が押し入ったのが河合楽器の保養所・あさま山荘だ。管理人の妻を人質に立て篭もり、10日間に及んで機動隊と壮絶な銃撃戦を繰り広げて全員逮捕。連合赤軍は壊滅した。
事件は生中継されテレビ史上最高の89.7%という視聴率をたたき出した。しかし、その後に凄惨な同志殺しが明らかになると、社会は強い衝撃を受けた。これを機に新左翼運動は急速に支持を失っていく。