ロシアが隣国ウクライナへ軍事侵攻を続けている。激しい戦闘により、民間人にも多くの犠牲者が出ている。終結の兆しが見えないこの戦争を、作家の甘糟りり子さんはどう見ているのか。
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第三次世界大戦が始まってしまうのだろうか。そんなことを現実に心配する日がやってくるとはついこの間まで思わなかった。
ニュース番組でウクライナの80歳の男性が銃を手にしている場面を見た。他にも、市民がロシアの戦車に向かって火炎瓶を投げつけたり、女性が銃の訓練をしている様子などが連日、報道されている。銃を持つ女性の爪に施された真っ赤なネイルカラーが印象に残った。
ゼレンスキー大統領は市民にも武器を持つよう呼びかけているという。 SNSでは市民が戦争に参加することを美談のように報道していいものかという声もいくつか見かけた。戦争に加担することは決して美談ではない。だが、あっという間に平穏な日々が理不尽に奪われたウクライナの市民たちはやむにやまれず奮い立ったに違いない。不安だろうし、怖いだろう。彼らの行動を非難するつもりもまったくない。
断固、戦争反対。戦争は殺人だ。武力や暴力、恫喝によって他者を押さえつけることはあってはならない。相手が誰であれ、どんな理由があっても。
ウクライナの市民は普通に暮らしていたのに、ある日家の近くにミサイルが飛んできて、戦車があちこちに現れて、迷彩服の人が銃をこちらに向けてきたのだ。あんなふうに相手が武力や暴力、恫喝をしてきたとしたら、どうしたらいいのだろうか。同じようにし返せば、そうした行為を肯定してしまうことになるし、武器を手にすれば憎しみも大きくなる、ずっとそう信じてきた。しかし、無抵抗では自分も国も終わってしまう。やられた場合には、やっぱりやり返すしかないのだと、今回のウクライナ危機で実感した。
とはいえ、もし私だったら、意を決して武器に手をかけるなんておそらく無理。ただガタガタと震えているだけだと思う。無抵抗という意思表示さえできないはずだ。それとも極限の状況がそんな平凡な市民も勇敢に変えてしまうのだろうか。戦争に直面した自分をこんなにリアルに想像したのは生まれて初めてだ。「私」ではなく「我が国は」「日本は」と大きな主語で語り、やたらと威勢が良くなる人が苦手だが、戦争になると「私」と「国」の距離が一気に近くなるのだとも感じた。