部員から新型コロナ感染者が出たことにより、広島商がセンバツ甲子園の2回戦を辞退。大阪桐蔭が不戦勝で準々決勝へと駒を進めた。まさかの不戦勝で大阪桐蔭の西谷浩一監督は甲子園通算58勝となり、同じ大阪のPL学園をかつて率いた中村順司監督と並ぶ歴代2位の数字となった。PL学園の硬式野球部は2016年に休部しており、“大阪の覇者”は完全に入れ替わった格好だ。そうしたなか、中村監督が率いた黄金時代のPL学園の屋台骨を支えた「伝説のスカウト」が、昨夏にひっそりと現場を退いていた──『永遠のPL学園』(小学館文庫)の著者であるノンフィクションライター・柳川悠二氏がレポートする。【前後編の前編、後編を読む】
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1962年に監督としてPL学園を初めての甲子園出場に導き、その後は野球部の顧問として全国の有望中学生に眼を光らせ、学園のある大阪府富田林に集めて常勝軍団を築き挙げた男がいる。高校野球の歴史上、随一の人気を誇ったPL学園硬式野球部(2016年に活動停止)を語る時、“伝説のスカウト”として必ず名の挙がる井元俊秀(いのもと・としひで、85)だ。
2002年にPLを追われた男は、青森山田で12年間、秋田のノースアジア大明桜でも8年間にわたってPL同様の役割を担い、近畿圏の中学生球児を東北へと送り出してきた。
60年以上に渡る高校野球との関わりの中で、これまで携わった3校で春夏の甲子園に出場した回数は計45回、通算の勝利数は99勝だ。この記録は甲子園通算68勝という歴代最多勝利記録を持つ智弁和歌山の前監督・高嶋仁の偉業と、個人的には同等に語り継がれてしかるべき業績と思っている。そして、プロに送り出した球児も総勢83人にのぼる。
「本当はもう少しプロになった選手はおるんだけど、ボクがプロと認めていないのがおるから、その選手はカウントしていません」
深く刻まれた目元の皺をさらにギュッと寄せ、井元はニカッと笑った。およそ1年ぶりに会う井元は、千葉ロッテのキャップをかぶっていた。井元とやり取りするようになって6年以上経つが、特定の球団のキャップをかぶって姿を現したことはこれまで一度もなかった。
昨春に石垣島で行われていた千葉ロッテの春季キャンプに足を運んだ際、井元が明桜にスカウトし、同校からプロに進んだ山口航輝(2018年ドラフト4位)からプレゼントされたサイン入りのキャップだという。山口は現時点で、井元が最後に送り出した、“83人目”のプロ野球選手となる。
だが、今年7月に86歳になる井元が昨年8月、静かに高校野球界を去ったことを知る者は少ない。
「コロナ禍でそうそう出歩けなくなってしまったし、出歩くことがしんどくなってしまった。幸いにして、車の運転はできるんだけど、足腰が弱ってしまってね。もうあちらこちらに飛び回ることもできないんです。持病もあるし、潮時かなと。未練なんてありません」