2008年頃に「ななななー」というフレーズの脱力系リズムネタで一世を風靡したお笑いコンビ・ジョイマン。その後はブームが過ぎ去り一時は“一発屋”と囁かれることもあったが、徐々に再ブレイクの兆しを見せ、今ではテレビでもたびたび目にするようになった。特にボケ担当の高木晋哉(41)の哀愁漂うTwitterアカウントは人気で、フォロワー数は約30万人。3月17日にはツイートを集めた著書『ここにいるよ』も刊行された。最初のブレイクから14年、芸人活動を継続することで新たなポジションを獲得した高木に話を聞いた。
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──「ななななー」のリズムネタが大ブレイクしてから10年以上が経過しました。当時を振り返って今でも印象に残っていることはありますか?
高木:あの頃はとにかく忙しかったですね。丸1年休みがない状態。特に印象に残っていることといえば、一番最初にテレビに出た時のことです。
『ぐるぐるナインティナイン』(日本テレビ系)の“おもしろ荘”というコーナーだったのですが、僕は高校生の頃からニッポン放送の『ナインティナインのオールナイトニッポン』をずっと聞いていて、ナインティナインさんが大好きだった。ラジオをきいて「芸人ってカッコいいな」と思ってお笑いの世界を目指したので、目標としていた憧れの人にいきなり会えて運命的な感じがしました。その時の経験は今でもお笑い芸人として活動を続ける理由になっているなと思います。
──新刊『ここにいるよ』には「40 歳になりました。 生んでくれたお母さん、ありがT オリゴT!」という親御さんへの感謝の言葉も収められています。高木さんはお笑いの活動を始めた当初はご両親に反対されたそうですが、いつ頃から認めてもらえるようになったのでしょうか?
高木:僕は浪人してまで入学させてもらった早稲田大学を、芸人になると決めた時に親に言わずに勝手に辞めちゃったんです。それで父親にものすごく怒られて、「お笑いをやりたい」と言ったら「出てけ!」と言われてしまった。
まあ、その後もズルズルと1年ぐらいは実家にいたんですけど(笑)、引っ越してからはずっと連絡を取っていませんでした。気まずくて実家には帰れないし、「今はこんな活動をしてるよ」と報告することもできず。
でもテレビに出始めたある日、親から連絡が来たんですね。「観たよ。頑張ってるね」って。そこからだんだん連絡を取り合うようになっていきました。今でも「シンちゃんはお笑い向いてないね」って言われるので、認めてもらえたわけではないとは思いますけど、応援してくれてるなとは感じます。母親からはジョイマンのネタを提案されることもありました。