「ものづくり」という言葉が日本の製造業の強さとして、さかんに世の中で言われるようになったのは1990年代後半のこと。団塊の世代がいっせいに定年を迎える「2007年問題」が取り上げられ、技術の継承が危ぶまれたこともあって注目をあびるキーワードとして浮上した。だが世間の耳目を集めたときにはすでに遅かったらしく、そのとき技術者たちは日本の製造業の隅へと追いやられた後だった。俳人で著作家の日野百草氏が、日本の「ものづくり」がどのようにして弱体化させられたのか、製造業の技術者として働いていた人たちが現場で見たことを聞いた。
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「よいものを作れば評価される時代がありました。それが儲かるだけのものに変わり、インチキしか作れなくなり、最後は関係ない仕事をしていました」
筆者が教えるシニア向けの趣味サークルで語ってくれたのは70代の元技術者、出会った当時、といっても4、5年前だが「あの製品は私も手掛けてましたよ」と聞いて筆者は色めき立ったものだ。彼は家電メーカーの技術者だった。そう、かつての日本はあらゆる「ものづくり」で世界のトップに立っていた。
「あの時代、現場の技術者は次々とリストラされました。業界そのものを見限ってビルメンテナンスとかタクシー運転手とか別の分野に行ったのもいましたが、運良く腕を買われて中国や韓国の企業に手を貸した技術者もいましたね」
柔和に笑う元技術者、70代は逃げ切りのように思われるかもしれないが、理系技術者に限れば、決してそうではなかったという。
「1980年代まではよい製品を作ればいい、ただそれだけでした。でも技術屋なんて本来そんなものです。会社が権力争い、出世競争をしていても私たちは蚊帳の外で、むしろそれでいいと思ってました。技術畑で出世する人なんて少ないし、まして一般(家電)でしょう、上が変な投資をしたって、技術を切り売りしたって止めようもない」
詳細な経緯は本旨ではないため割愛するが、彼が工学の知識と経験で技術者として食ってきたことは確かだ。それは1990年を過ぎたあたりから怪しくなったという。
「多くのメーカーに銀行が介入してくるようになりました。うちもそうです」
経営立て直しの名目で銀行から出向してきた連中はもちろん、よくわからない経営コンサルタントも送り込まれてきた。