新聞・メディア業界に大きな衝撃を与えたのが朝日新聞の峯村健司・編集委員(外交、米国・中国担当)による、『週刊ダイヤモンド』の安倍氏インタビュー記事への介入問題だ。
朝日新聞のエース記者といわれる峯村氏は今年3月、『週刊ダイヤモンド』が行なった安倍氏へのインタビューについて同誌の副編集長に電話を入れ、「安倍(元)総理がインタビューの中身を心配されている。私が全ての顧問を引き受けている」と発言し、「とりあえず、ゲラ(*校正用の記事の試し刷り)を見せてください」「ゴーサインは私が決める」などと要求した。
週刊ダイヤモンド編集部は要求を拒否し、朝日新聞に対して「編集権の侵害」と抗議。朝日は調査を経て、「政治家と一体化して他メディアの編集活動に介入したと受け取られ、記者の独立性や中立性に疑問を持たれる行動だった」とダイヤモンド側に謝罪。4月7日付朝刊社会面で峯村記者の行為は「報道倫理に反する」と編集委員を解任し、停職1か月の処分を下したことを大きく記事化した。
「私は朝日に勝った」
振り返ると、安倍首相と朝日はこの四半世紀の間、戦い続けてきたと言っていい。最初に攻勢をかけたのは朝日側だ。小泉政権時代の2005年1月に朝日がNHKの慰安婦番組改変問題を“スクープ”し、当時、官房副長官だった安倍氏と経産相の中川昭一氏がNHK上層部に圧力をかけたと報じた。
これに対して安倍氏は「報道は朝日の捏造だ」と反論。NHK側も圧力を否定し、朝日は第三者機関を設置して検証し、「真実と信じた相当の理由はあるにせよ、取材が十分であったとは言えない」という見解が出された。朝日は「取材の詰めの甘さを深く反省する」という社長コメントを出したものの、謝罪はしなかった。
その後、安倍氏が総裁選(2006年)への出馬に動くと、朝日は社説で安倍政権阻止を鮮明にする。対抗馬として福田康夫氏の出馬が取り沙汰されると、「福田さん、決断の時だ」と露骨に出馬を後押しし、福田氏が出馬断念するや、「安倍氏独走でいいのか」と嘆き、第1次安倍政権発足に「不安いっぱいの船出」と書いた。実にわかりやすい。
第1次安倍政権は短命に終わる。“消えた年金問題”などで批判が高まり、2007年の参院選で大敗。朝日は大手紙では唯一、参院選翌日の社説で、「安倍政治への不信任だ」として「退陣すべきだ」と突きつけた。政権はほどなく行き詰まり、安倍氏は退陣する。
安倍vs朝日の第2ラウンドは民主党政権末期の2012年9月、安倍氏が自民党総裁に返り咲くといきなり火蓋を切った。
朝日は総裁選翌日の社説で、〈安倍新総裁の自民党――不安ぬぐう外交論を 大きな不安を禁じえない〉とパンチを浴びせた。だが、その年12月、第2次安倍政権が発足すると、攻守が逆転する。