「いったい、どこまで負け続けるのか……」。ファンからはそんなため息混じりの声も聞こえてくる。4月20日、阪神がDeNAにサヨナラ負けを喫して3連敗。22試合を終えて3勝18敗1分、勝率1割4分3厘でリーグ最下位を独走している。首位・巨人には11.5ゲーム差を付けられ、早ければ30試合目の4月29日に自力優勝の可能性が消滅するという“非常事態”になってきた。プロ野球担当記者が話す。
「巨人が8連勝して、阪神が8連敗するという仮定の話ですから、実際には4月中の自力V消滅はないでしょう。しかし、開幕から1か月も経たないうちに、そんな話題が出ること自体、とんでもないこと。去年はゲーム差なしの2位で、今年も優勝争いをすると思われていましたから」
今年の弱さに“暗黒期”を思い出すファンもいるだろう。阪神は2リーグ分裂後の優勝回数5回と少ないが、1970年代半ばまではAクラスの常連だった。1978年に球団史上初の最下位に転落するも、1985年には日本一に輝いて猛虎フィーバーが起こった。しかし、その2年後から暗黒期が始まった。2003年に星野仙一監督で優勝するまでの間、16年間で15回のBクラス、そのうち10回の最下位と散々な成績だった。
「特に、吉田義男監督の1987年は弱かったですね。4番の掛布雅之が前年の故障から急激に衰え、この年は腰痛も発生して二軍落ちするなど絶不調だった。元々、強くなかった投手陣は外国人のマット・キーオが孤軍奮闘した以外は目立たなかった。6月に札幌円山球場で連敗した時は細川たかしの『北酒場』に引っ掛けて、『北墓場』と見出しを打つスポーツ紙もありました。終わってみれば、球団史上ワーストの勝率3割3分1厘、優勝の巨人とは37.5ゲーム差を付けられた。2年前の天国から地獄に落ちた吉田監督は1985年からの5年契約だったにもかかわらず、事実上の解任となりました」
そんな最弱の1987年でも、22試合消化時点では6勝14敗2分で、勝率は今年の倍以上の3割あった。当時の戦力を見ると、20代のレギュラーは捕手の木戸克彦と遊撃手の平田勝男しかおらず、投手陣も山本和行、福間納、伊藤文隆などは30代で峠を越えていた印象もあった。28歳で中堅の池田親興は来日したばかりのボブ・ホーナーに1試合3ホーマーを打たれるなど調子が上がらず、2年目の遠山昭治の故障など誤算も重なった。