放送作家、タレント、演芸評論家で立川流の「立川藤志楼」として高座にもあがる高田文夫氏が『週刊ポスト』で連載するエッセイ「笑刊ポスト」。今回は、芸人人生におけるポイントとなるライブについてつづる。
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芸人や歌手には「あの会がきっかけ」、「あのコンサートでブレイク」などエンターテイメントの中でポイントとなるライブがある。落語で言えば若き日の「志ん朝七夜」である。伝説の中で私は二夜、間にあった。
そこで今回は噂とか幻でしかなかった『伝説の談志五夜』(日本コロムビア)がいよいよ4枚のCD化となった話。私とギャグ本なども出した作家の和田尚久がコツコツと国立劇場へ通い出しあらゆる音源をききまくり国立演芸場でのタブーな「談志五夜」を各所へ根まわしして遂にCD化へこぎつけた。和田からカバーにコメントを求められたのでこう書いた。《談志は言った。「これだけは世に出すな」と。by高田文夫》
この一行で充分だと思う。1995年3月の話である。この時談志59歳、私47歳。一番威勢のいい頃である。男盛りやんちゃ盛り。私は第一夜で一席やって、第三夜楽屋へ遊びに。そこへ天下の中村勘九郎(十八代勘三郎)もやってきてパーッと飲みに行ったはいいが、深夜2時くらいか、談志はもう嬉しくてベロベロ。「明日もう行かな~い。第四夜、勘九郎、舞台上がって代わりにあやまってくれ。オイッ高田。お前はたけし連れて国立に来い」だと。もうメチャクチャ。皆さんご存じのあの事故のすぐ後である。まだ眼帯もしてるし、テレビにも一度も出ていない状態である。本当のことを言えばきっと談志はたけしが心配で早く逢いたかったのだと思う。こういう形にすれば高田が何とかしてくれるだろうと思ったのだと今なら合点する。
第四夜、宿酔いで高座の隅で笑っている談志に中央で勘九郎、たけし、私という圧倒的な写真が家にある。今度私のブログ(「おもひでコロコロ」)に発表しようと思う。