ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。近現代編第九話「大日本帝国の確立III」、「国際連盟への道 その6」をお届けする(第1339回)。
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これまで述べたように、明治天皇は儒教的名君をめざし、ひたすら徳を積むことをめざしていた。その天皇が「朕が不徳の致すところ」と生涯の汚点と考えたかもしれない大事件が、その治世の晩年に起こった。いわゆる大逆事件である。
〈たいぎゃく-じけん【大逆事件】
明治43年(1910)多数の社会主義者・無政府主義者が明治天皇の暗殺計画容疑で検挙された事件。大逆罪の名のもとに24名に死刑が宣告され、翌年1月、幸徳秋水ら12名が処刑された。幸徳事件。〉
(『デジタル大辞泉』小学館刊)
大逆とは天皇に謀反を起こすことで、「天皇が神の子孫」と決定して以来、日本人にとって絶対に許すべからざる最大の罪であった。すでに述べたように、後に天武天皇となった大海人皇子が壬申の乱で倒した敵は大友「皇子」では無く、即位した天皇(弘文天皇)と考えられるのだが、『日本書紀』には大海人皇子が戦った敵はあくまで「皇子」で天皇では無い、と書かれてある。しかし、それを編纂したのは他ならぬ天武天皇の息子の舎人親王だから、ここはデタラメが書いてあると考えるのが合理的である。逆に言えば、そう書かざるを得ないほど大逆は日本人にとって重い罪だということだ。
明治になって日本が近代国家になると、大日本帝国刑法で大逆罪が設けられ法律上の罪にもなった。最初は刑法第一一六条に「天皇三后皇太子ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」と定められた。三后とは太皇太后、皇太后、皇后、つまり二代前の天皇の「皇后」までその範囲に含まれるということだ。逆に上皇が対象とされていないのは、この時代天皇は終身在位するからである。大日本帝国憲法、皇室典範の時代には上皇は存在しない。
条文を見ていただければわかるが、天皇を暗殺するどころかケガを負わせたり、あるいは未遂であっても死刑に処するという、他に類例を見ない厳しい罰則規定がある。しかも、大日本帝国憲法下においても現在の最高裁判所にあたる大審院は存在し三審制もあったのだが、この罪については大審院で一回だけ、しかも非公開で審理を行なうという即断即決の形になっていた。
もちろん、これでは冤罪を生みやすいと批判されても仕方が無いほど異例の規定であったのだが、これを社会主義者弾圧に用いようとした首相桂太郎にとっては、じつに好都合であった。こう言えばおわかりだと思うが、この大逆事件で逮捕された二十四名、死刑に処された十二名のうち四名以外は無実であった。とくに、事件の代名詞にもなっている幸徳秋水も暗殺計画は知っていたが参加はしなかったので、まったくの無実であった。ところが、証人喚問もしないスピード審理のデタラメ裁判で死刑に処されてしまったのである。