では、何のために教育するのかといえば、大きく分けて2つあります。1つは、立派に社会人として、あるいは世界人として生きていく力をつけるため。そしてもう1つは、稼ぐ力を身につけるためです。
拙著『経済参謀 日本人の給料を上げる最後の処方箋』で繰り返し述べたように、明治維新から150年あまり、近現代の日本の教育は、ずっと「答え」があることを教えてきました。しかしながら、いまだに日本の教育制度では、財務・経済・金融など社会人として必要な常識を教えていません。これは、学習指導要領にもないし、文系の人であっても、これを勉強していません。
それから、「世界で活躍する」とか「世界と戦う」ための準備なども、教育の中でやっていません。だから、世界に出て通用する日本人が非常に少ないわけです。これはやっぱり、今の文科省教育ではどれだけ時間や努力を重ねてもダメなのです。
もともと“語学の壁”もありますし、エビデンスを提示した上で議論を前に進めていくという論理的思考を全くわかっていない。あるべき教育政策を考えるという観点から見ると、文科省は相当ズレています。
このズレを軌道修正する役目を担うのは国会議員なのですが、今の政治家はもっと頭がフリーズしていて、論理的思考から最も遠い人たちなので、修正は不可能です。
子供に考えさせる北欧型教育
一方で、北欧の教育は、「詰め込み」型の対極にあって、子供たちの学力を向上させています。どういう教育なのか? デンマークの例を紹介したいと思います(図表2参照)。
北欧諸国というのは、米ソ冷戦が終わった後、ソ連崩壊による経済の混乱の中で、非常に苦しんだ経験があります。フィンランドなどは、ブルーカラーの失業者が激増しました。デンマークもまた、大不況に見舞われ、失業率は2ケタを超える水準に跳ね上がり、労働市場改革や教育改革を余儀なくされました。
しかし、前述したように、21世紀というのは「答え」がない時代です。そうであれば、「答えを教える教育」から、「子供に考えさせる教育」にシフトしよう──こういうことを教師たちが言い始めたのです。私たち向研会も、デンマークの学校教育を視察しました。
それでまず彼らは、学校から「ティーチャー(先生)」という呼び方をやめることを決めました。なぜかと言えば、「ティーチ(教える)」ということの前提は、最初に答えがあるわけです。でも今は、答えがないのですから、それを教えることもできません。答えのない時代に、教員にできることは、「生徒と一緒に答えを見つけに行くこと」です。そして、学校というのは生徒が学ぶ(ラーン)場であり、教育者は「ファシリテーター(促進者)」と呼んでいました。
我々が視察したのは、生徒26人のクラスでしたけれども、「答えは26通りあっていい。それをみんなで議論しながら、1つに取りまとめて実行する。このプロセスを前に進めて行く存在がファシリテーターであり、それが教師の役割である」という説明でした。