手頃な価格の駄菓子は、いつの時代も子供たちの味方だ。砂糖、小麦粉といった原料や梱包資材、輸送代は値上げの一途を辿るが、駄菓子業界の大人たちはギリギリの薄利で今日も作り、売り続けている。はたして今後も商いを続けていけるのか。東京最古の駄菓子屋の店主に話を聞いた。
「20代の頃は日暮里の駄菓子問屋街へ通って、商品を風呂敷で担いで仕入れてたの」──上川口屋の内山雅代さんはそう語る。
雑司ヶ谷鬼子母神堂の境内で、1軒の飴屋が創業したのは1781年(天明元年)。後に駄菓子屋へ宗旨替えしつつ、一族の女性が代々店主を務めてきた。店舗は東京大空襲でも奇跡的に焼け残った。
初代から数えて13代目となる内山さんは60年以上、おこづかいを握って通う子供たちの成長を見守っている。初代が創設した「川口屋」の屋号は先代時に他者へ譲りつつ、こちらは古来の様式を崩さず「上川口屋」の名で静かに営業を続けてきた。
ただし利益は1か月あたり2万円少々で、後継者に店を継いでもらうべきか迷いがある。
「今はコンビニエンスストアにも駄菓子が並んでいるでしょ。若いお母さんがやってくると『あら、コンビニと同じものが売ってるわ』と言って、それで終わってしまうのよ」(内山さん)
江戸時代から続く老舗で、店主とテンポよく会話し、素朴な味わいの駄菓子を選ぶ。このプライスレスな空間は、ぜひ後世へ長く残っていってほしい。
取材・文/山本真紀 撮影/古川章
※週刊ポスト2022年5月27日号