ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。近現代編第九話「大日本帝国の確立III」、「国際連盟への道 その9」をお届けする(第1342回)。
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日本国中があげて幸徳秋水「一味」を厳しく糾弾するなかで、唯一人敢然と立ち上がり彼らを弁護した蘆花・徳冨健次郎とはいかなる人物か?
本業は小説家である。一八六八年(明治元)、肥後国水俣(現、熊本県水俣市)で生まれた。徳富家は地元郷士の家柄で、五歳年上の兄に明治を代表するジャーナリストにして歴史家、『國民新聞』の創刊者にして『近世日本国民史』の著者である、蘇峰・徳富猪一郎がいた。蘆花は優秀な兄蘇峰に「『負け犬』意識があり、徳富の富を兄とは異なる『冨』の字で生涯通した」(『朝日日本歴史人物事典』)という。
「蘆花」は「アシの花(穂)」で「見栄えのしない花」という意味だが、これも兄蘇峰(故郷熊本が世界に誇る名峰阿蘇山にちなむ)へのコンプレックスというか、対抗意識に由来するのだろう。その兄の影響で洗礼を受けてキリスト教徒になり、京都の同志社で学んだ。この間、NHK大河ドラマ『八重の桜』の主人公、新島八重の兄、山本覚馬の娘、久栄と恋仲になったが、周囲の反対で別れを余儀無くされた。蘆花の作品『黒い眼と茶色の目』は、この間の事情を小説にしたものである。
この挫折を蘆花は、ロシアの文豪レフ・トルストイの作品に傾倒することによって乗り越えたようだ。兄蘇峰も弟蘆花も、ロシアに渡航しトルストイ本人に会っている。蘇峰は有名人に会ってみたという程度だったが、蘆花は数日間滞在し大きな影響を受けた。そして、帰国後は東京郊外多摩郡千歳村粕谷(現、東京都世田谷区粕谷1丁目)に転居し、当時は武蔵野の面影を深く残していた自宅周辺を「恒春園」と命名し、トルストイを見習った晴耕雨読の生活を送った。
現在は旧宅が寄贈され周辺が「蘆花恒春園」と呼ばれ蘆花記念館も併設され、一帯が芦花公園になっている。ちなみに、どうでもいい話だが筆者はこのすぐ近くにある東京都立芦花高校の出身ということに「なっている」。「なっている」というのは、たしかにこの場所にある高校に筆者は三年間通学したのだが、当時は東京都立千歳高校といった。のちに少子化による高校統廃合で芦花高校に改名されたのである。不思議な縁と言うべきか。
小説家としての蘆花の最大のヒット作は、『不如帰』であろう。『國民新聞』に連載された後に出版され、大ベストセラーになった。結核(当時は不治の病)に冒された美貌の女性、片岡浪子が主人公の悲劇で、「千年も万年も生きたいわ」の名ゼリフが一世を風靡した。ただ、この小説のなかで主人公の義母(父親の後妻)のモデルと目されたのが西郷隆盛のイトコ大山巌の夫人、捨松(旧姓山川)であり、きわめて意地の悪い女として描写されているのだが、それは一種の「文化的誤解」であり、実際の捨松はそんな人間では無かったことはすでに述べたとおりだ。
さて、この『不如帰』がベストセラーとなったのは一九〇〇年(明治33)、トルストイに会ったのが一九〇六年(明治39)で、それから四年後の一九一〇年(明治43)に大逆事件は「起こった」。六月に入って幸徳秋水ら二十六人が検挙され、非公開一審のみのスピード裁判で翌一九一一年(明治44)一月十八日には二十四人に死刑が宣告された。ところが、翌十九日にはその半数の十二人に対し天皇の名で減刑するという措置が発表された。「命だけは助けてやる」ということだ。
実際にはこの件について天皇は一切関知しておらず、事件のでっち上げを推進した桂太郎首相一味が仕組んでいた一種の「八百長」であった。はじめから多めに死刑を宣告し、半分を助けることで「寛大さ」を演出しようとしたのである。もちろん、蘆花はそんなことは知らない。
彼は矛盾するようだが、明治の人間として天皇の熱烈な信奉者であった。この点が幸徳とはまったく違うところで、むしろ反目していた兄蘇峰との共通点はここだけだったかもしれない。それゆえ、蘆花は天皇の恩情にすがって幸徳らの助命を嘆願することを決意し、桂太郎首相に手紙を書き疎遠にしていた兄蘇峰に仲介を頼んだ。兄蘇峰は日清戦争後ロシアが中心となった三国干渉以来、明治政府の方針を支持し、桂とも親しくしていたからだ。これが非戦論そして平和主義を信じる蘆花との決定的な決別の原因となったのだが、このときは助命が第一であり兄のコネも利用すべきだと考えたのだろう。