完全試合やノーヒットノーランが相次ぐ今季は「投高打低」と言われる。“令和の怪物”こと、プロ3年目・佐々木朗希の快投などが観客を興奮させているのはたしかだろう。ただ、中6日で、球数は100球まで。かつてのプロ野球の「絶対的エース」の活躍は、今では考えられないものだった。(文中敬称略)【全3回の第1回】
昨季はチームのリーグ優勝に貢献し、沢村賞を獲得したオリックス・山本由伸。その成績は26登板(193回2/3)、18勝5敗、206奪三振、防御率1.39という数字で、“現役最強投手”の呼び声も高い。
今季はロッテ・佐々木朗希も“異次元の活躍”と称賛される。完全試合を達成すると、中6日で登板した翌週も8回まで完全投球を見せた。山本も佐々木も、たしかにすごい。しかし、1950年代や1960年代に活躍した絶対的エースと比べると、どうだろうか。
代表例が「1958年の稲尾和久」だ。1958年に開催された西鉄vs巨人の日本シリーズ。西鉄のエース・稲尾は第1戦、第3戦に先発するも敗れ、チームも3連敗。しかし、ここから稲尾が獅子奮迅の活躍を見せる。
4戦目は9回を投げ切って西鉄が6対4で勝利。第5戦も0対3の4回からリリーフし、9回に西鉄が追いつくと、延長10回には稲尾自身の本塁打でサヨナラ勝ちを収める。第6戦は先発して9回3安打完封。最終戦も稲尾が先発すると、長嶋茂雄のランニングホームランの1点に抑え、3連敗からの4連勝に。3年連続の日本一となった。7戦の計62イニングのうち、稲尾は実に47イニングに登板したのである。
「この年に『神様、仏様、稲尾様』という言葉が生まれた。オールスター前に首位・南海に10.5ゲーム差をつけられていた西鉄が、逆転でリーグ優勝した時に誕生したフレーズです。オールスター以降、西鉄が優勝するまでの48試合で稲尾は31試合登板し、17勝1敗。ダブルヘッダーに連勝すれば優勝という局面では、2試合とも登板し、胴上げ投手となっています」(スポーツ紙編集委員)
昨年の山本の登板イニング数は200回に届いていないが、この年の稲尾は373回に及ぶ。翌1959年や1961年は400イニング以上を投げた。
「稲尾は通算756試合に投げたうち、117試合が連投だった。凄まじい数字です。プロ9年目(1964年)は酷使がたたって1勝もできず、以降はリリーフに転向したが、満足のいく結果は残せず1969年に引退した。プロ通算14年で276勝。“太く短い”とも言うべき現役生活でした」(同前)