「夏草や 兵どもが 夢の跡」――大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも描かれた源義経や奥州藤原氏の滅亡を偲んで詠んだ松尾芭蕉の有名な一句だが、これら数多くの名句を残した俳人には、意外な一面があった。『文人たちの江戸名所』(世界書院)の著者で、江戸文化歴史検定協会の元理事・竹内明彦氏が、江戸文人の「奇抜エピソード」を紹介する。
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紀行『おくのほそ道』などで松尾芭蕉が巡った地域には数多くの芭蕉像があるが、ほとんどが宗匠頭巾を被り、手に杖と傘を持ち、「わび、さび」を想起させる質素な雰囲気を漂わせる。それゆえ、世俗的な欲望や功名心とは縁遠い文化人という印象を抱く人が大半だろう。そんな芭蕉が、実は当時の“江戸バブル”を駆け抜けた「新進気鋭のビジネスマン」だったことはあまり知られていない。
江戸時代研究の必携本とされる風俗事典『嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)』を著わした喜多村信節(きたむらのぶよ)という文人がいる。この喜多村家は代々の町年寄(町奉行の配下として名主たちを統括した役人)だったこともあり、信節は町政の記録も残していた。その中に残された延宝八年(1680年)六月十一日に出された「町触(名主たちへのお触れ)」を引用する。
《明後日十三日、神田川上水道水上総払いこれあり候間、相対致し候町々は、桃青方へきっと申し渡さるべく候》
「水上総払い」とは、上水に溜まった土砂の浚渫工事のこと。当時の水路は蓋のない開渠だったので土や埃などが溜まりやすく、年に一度の大規模な浚渫が必要だった。言うまでもなく当時の神田川は江戸に住む者の重要な水源である。そして「相対」とは相対契約の意味。この町触は「明後日に水道掃除があるので、契約したい名主は、必ず桃青に連絡せよ」と指示しているわけだ。