「逃亡犯」は時折ニュースに登場しては逃げおおせ、世間をアッと驚かせる。大胆に、緻密に、俊敏に、狡猾に、彼らはあざ笑うかのように世間を渡る。フリーライターの高橋ユキさんが今月上梓した『逃げるが勝ち 脱走犯たちの告白』(小学館新書)には、近年、新聞やテレビで騒がれ、私たちの記憶に新しい逃亡犯たちが何人も登場する。
2018年に大阪府富田林署の面会室のアクリル板をずらして逃げ出し、自転車旅のサイクリストを偽装して1か月以上も捕まらなかった山本輝行受刑者(当時30才・仮名)や、同年、愛媛県今治市の塀のない松山刑務所(大井造船作業場)から脱走して島に潜伏、さらには瀬戸内海の尾道水道を泳いで渡った野宮信一受刑者(当時27才・仮名)などだ。
指名手配された者の逃亡を支えるのは、「資金」と「仲間」だ。資金がなければ食料は買えず、住居は借りられず、交通機関すら使えない。そのため、山本は自転車を使い、食料を万引した。野宮は空き家に寝泊まりし、そこに残っていた食料で空腹を満たした。しかし、いずれもその場しのぎの行動に過ぎない。そのため、彼らは数か月で捕まってしまった。
「体をかわす(逃げる)ならね。やっぱり、ちゃんと働かないと難しいんじゃないかな」
穏やかな表情で、そう語るのは、小野忠雄氏(76才)だ。小野氏は恐喝事件で逮捕・起訴された後、控訴保釈中に国外へ“高飛び”した。その後、1980年4月、東南アジアを拠点に、大量の銃器を日本に密輸する指揮を執ったとして国際手配され、フィリピンで約2年半に及ぶ逃亡生活を送った。当時は日本の警察庁が「初めて国際特別手配したヤクザ」だったが、現在は暴力団員ではない。長期逃亡ができた理由を小野氏本人が分析する。
「都市部から遠く離れたド田舎で、普通のフィリピン人と同じように、真面目に生活したんだ。日の出とともに起きて、牛をひいて田んぼで米を作るか、海で漁に出る。40年以上も前のフィリピンのド田舎だから、大変だよ。電気なんか一切なくて、全部手作業。田植えから収穫、脱穀まで全部ね。歯医者もないから、虫歯があれば、自分で歯に釣り糸をかけて引っこ抜いて。水をくむための井戸だって、自分で堀ってさ」