日本で活躍する外国人タレントは大勢いるが、アフリカ出身タレントは限られる。1980年代半ばから1990年代に活躍したオスマン・サンコンさん(73)はその1人。アフリカ西部のギニア共和国出身で、バラエティ番組『森田一義アワー 笑っていいとも!』(フジテレビ)などにレギュラー出演していた。下ネタ好きの明るいキャラクターで人気だったが、最近はテレビで見なくなった。サンコンさんの今を直撃した。
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「もう70過ぎたけど、耳はよく聞こえるし、視力は1.2。歯も全部自分の歯で、虫歯も1本もないんです。ただ、たまにお酒を飲みすぎちゃって、健康診断でγ-GTPの値が高く出ると、お医者さんに『お酒を控えてください』と言われちゃう(笑い)」
取材当日、スーツ姿で現れたサンコンさんの左胸には、菊花紋章のバッジがキラリ。「天皇陛下から旭日双光章をいただいたんです」と、誇らしげだ。
ギニア大使館補佐官のサンコンさんは、2000年に発足したギニア日本交流協会で、母国の恵まれない人々のために活動してきた。ギニアに日本の衣料品や医療器具、消防車などを送ってきた功労を表彰され、数々の勲章を受賞。胸にはほかにも観光大使を務める鹿児島県・徳之島のバッジや、応援するウクライナ国旗のバッジなどを付けている。
「コロナ前まではイベントも含めて月4、5本仕事があって、結構忙しかったんですよ。でもコロナの影響もあって、特に講演はほとんどなくなったね。ここ2年は、家の近くの公園を散歩したり、高校2年生の三男とバスケットボールをするぐらいしかできなくて……。僕、これでも子どもの頃はサッカー選手になりたくて、サッカーを頑張ってたんです。でも、右脚のアキレス腱を断裂して、手術の失敗で脚が不自由になってあきらめた。兄弟に『サッカーできないならあっちに行け』とのけ者にされて、悔しくて一生懸命勉強したんです」
69歳で4度目の結婚
“ギニアの東大”コナクリ大学に進学し卒業後、仏・ソルボンヌ大学に国費留学。帰国後の1972年、ギニア外務省に入省し、一等書記官として来日した。サンコンさん、超エリートなのだ。
「日本には、ギニア大使館を設立するために来たの。日本語をイチから覚えて8年間勤務して、その後、米国のワシントンD.C.に転勤になって3年間。一度、ギニアに帰国したんだけど、外務省を休職して補佐官の立場で昭和59年(1984年)にまた日本に来て、それから『笑っていいとも!』のオーディションを受けてテレビに出るようになった。有名になろうとしたんじゃなくて、ギニアのことを日本の人たちにもっと知ってもらおうと思ってね」
外務省を休職してまで来日したのは、渡米前に日本女性と結婚し長男・勇さんが誕生したから。38歳になった勇さんは一時、レゲエグループで” DJヨンコン” として活動していた。
「今はイオンの下請けのスーパーの店長として、真面目に働いているよ。三男はいま、千葉ジェッツふなばしのユースチームでバスケのプロを目指してます」
ギニアは一夫多妻制。サンコンさんは勇さんの母親と結婚前に、ギニアで結婚し第一夫人がいるほか、日本でこれまでに3度結婚し合計3人の妻、3男2女の子どもたち、2人の孫娘がいる。サンコンさん、なかなか艶福家なのだ。