1972年、田中角栄は佐藤派から81人の議員を引き連れて木曜クラブ、いわゆる「田中派」を結成した。大派閥をバックに直後の自民党総裁選に勝利し、総理大臣となった。あれから50年──。すっかり熱気の失せた参院選を前に、かつて政界最強を誇った田中軍団の輝きを振り返る。【全4回の第1回】
* * *
「私は角栄の直系だ」
「当時は派閥政治の全盛期。だから党本部になど行かず、派閥事務所にばかりいました。その中で『田中派』はまさに最強派閥で、お金のレベルも違った。総裁選の時にわれわれからこぼれる票はひとつもなかった」
田中角栄・元首相の側近中の側近で「田中軍団の青年将校」と称された石井一・元自治相(享年87)は、本誌・週刊ポストの取材にそう語っていた。6月4日に亡くなった石井氏が死の直前まで懐かしそうに振り返ったのは、最強派閥と呼ばれた田中派の「鉄の結束」だった。
最盛期には140人以上の議員を抱え、「数は力」の論理で政界を席巻した田中派。その力の源は、個々の持つ並外れた能力だった。
大蔵官僚として角栄政権を支えた藤井裕久・元財務相が語る。
「田中派には林義郎さん、後藤田正晴さんなど政策に強い人が多く、中央官僚から一目置かれていました。また政策には強くないものの、国対で当時の最大野党の社会党と“寝技”を繰り広げた金丸信さんら政局通は国会運営で力を発揮しました。国会で法案を通すことは官僚の最優先課題であり、国会運営の観点からも官僚は田中派の面々を頼りにしていました」
角栄の秘書として政界入りした衆院議員の中村喜四郎・元建設相は、「適材適所の人事が田中派の強みだった」と振り返る。
「厚生省は橋本龍太郎、郵政省は小渕恵三、大蔵省は竹下登など、田中派の有力者は省庁の要所を押さえていた。それ以外の議員は、『じゃあ自分は金丸さんと一緒に得意な建設をやろう』などと身の振り方を考え、役人や業界団体とのパイプを築いていった。さらに田中派は『他人のために汗をかけ』『他人の選挙に協力できないと失格』が合言葉で、田中さんや先輩の目が光っているから抜け駆けできない。自然と適材適所の人事が定まり、その中で皆が一生懸命に鍛錬して政治家としての力量を伸ばした」
鉄の結束を誇る田中軍団をまとめあげたのが、角栄の「人間力」だった。
中村氏は「みんな、田中さんが好きだから集まっていたんです」と語る。
「軍団と言うと指揮命令系統に沿って上意下達で動くイメージですが、私が感じる田中軍団は、田中さんの指導力に心酔した人が集まった集団でした。自分が仕える国会議員よりも田中さんへの忠誠心が強く、『私は田中角栄の直系だ』と口にする秘書も多かった」