1972年、田中角栄は佐藤派から81人の議員を引き連れて木曜クラブ、いわゆる「田中派」を結成した。大派閥をバックに直後の自民党総裁選に勝利し、総理大臣となった。あれから50年──。すっかり熱気の失せた参院選を前に、かつて政界最強を誇った田中軍団の輝きを振り返る。【全4回の第2回。第1回から読む】
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田中派を支える秘書軍団もまた最強だった。元田中派議員秘書が語る。
「通常、田中派議員の秘書はその議員の秘書として活動します。しかし総選挙や総裁選、政局などで田中派が派閥として動く時は、『田中派の秘書軍団』として一致団結しました」
議員に負けず劣らずの有力秘書がいたことも田中派の特徴だ。角栄の最後の秘書である朝賀昭氏が語る。
「早坂茂三さんはメディア対応、佐藤昭子さんは金庫番、山田泰司さんは目白の事務管理と、有力秘書には各自の専門分野がありました。秘書は自分の担当に責任を持ち、別の秘書が何をしているかは知りません」
毎日夕方になると、体格の良い秘書が5人ほど派閥事務所のある砂防会館に招集された。
「夕方以降になると、田中先生は様々な会合に出る。その際、秘書の何人かが通称『PSP(プライベート・セキュリティ・ポリス)』としてボディガードを務めました。田中角栄が来ると人がドッと押し寄せるので、それをかき分ける役目でした」(前出・元田中派議員秘書)
PSPは現在のアイドル握手会における「剥がし役」の役割も担った。
「多くの人が先生に寄ってきますが、PSPは『この人は握手させても大丈夫』『この人は危なそうだから排除』と瞬時に判断していました。近寄ってくる一般人を遠ざけて政治はできないが、先生を危険な目に晒すわけにもいかない。通常の警察官や警備員にはできない繊細な役目を担ったのがPSPでした」(朝賀氏)
角栄率いる田中軍団だけに、そんな秘書たちの面倒を最後までみることも忘れなかった。
「議員が落選すると秘書は職場を失いますが、田中派の秘書会は落選秘書の次の勤め先を必ず見つけると保証していました。“永田町私設ハローワーク”と呼ばれるほどで、これも他の派閥にはない機能でした」(同前)
(第3回につづく)
※週刊ポスト2022年7月8・15日号