1972年、田中角栄は佐藤派から81人の議員を引き連れて木曜クラブ、いわゆる「田中派」を結成した。大派閥をバックに直後の自民党総裁選に勝利し、総理大臣となった。あれから50年──。すっかり熱気の失せた参院選を前に、かつて政界最強を誇った田中軍団の輝きを振り返る。【全4回の第3回。第1回から読む】
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田中派が戦闘集団としての威力を最大限に発揮したのが選挙であった。若手時代、木曜クラブの事務局員だった衆院議員の石破茂氏が語る。
「私が職員になってすぐ参議院選挙がありました。その時は北海道から沖縄まで自民党の候補者の名前を書き、田中派の候補者を赤丸で囲みました。続いて田中派の候補者が出る地域の地方新聞を一日遅れで入手して選挙情報をチェックし、各選挙区の情勢分析をしました。併せて日本列島の白地図に選挙区ごとの区割りを書き込み、田中派が立候補する地域を赤く塗った。『まだ赤くないところも赤くして、日本全国を田中派にする』との意気込みでした」
選挙前は、誰にいつ応援に来てほしいかを候補者に聞き、応援議員を割り振った。
「もちろん一番人気は田中角栄先生ですが、すべての選挙区を回るわけにはいきません。地味な応援弁士を割り当てられた陣営から不満が出た時、なだめるのもわれわれ職員の仕事でした」(石破氏)
角栄の娘婿である田中直紀氏が初めて選挙に出た時、当選確実だったため有名な議員は別の候補の応援に回った。すると、「誰がこんなの決めたの! ウチのパパを誰だと思っているの!」との抗議電話が事務所に寄せられた。
「直紀さんの奥さんの田中真紀子さんでした。『直紀先生は十分お強いので、私が当確ギリギリの候補者のところに変更しました』と伝えると、『お前は誰!』と叱られました(苦笑)」(同前)
選挙戦では田中派の威光をバックに団体票を徹底的に発掘した。
角栄の秘書として政界入りした衆院議員の中村喜四郎・元建設相が明かす。
「中選挙区は党ではなく、派閥が自前の候補者を擁立するため、脆弱な派閥事務所では候補者がふるいにかけられます。田中派の事務所は完璧に整備され、あと一押しすれば勝てる候補にいち早くテコ入れして影響力を持つ人を送り、業界団体を味方につけていった。重厚な協力体制は盤石で、候補者はみんな『田中先生のところに行きたい』と漏らしていました」