開戦時の東条内閣の商工大臣を務めた岸氏は敗戦後、A級戦犯として巣鴨プリズンに収監された。不起訴となり公職追放が解除されると、1953年の総選挙で国政に復帰。「晋三」誕生の翌年(1955年)の保守合同による自由民主党結成で初代幹事長に。1956年に石橋内閣の外相、1957年には首相へと瞬く間に頂上へ上りつめた。安倍氏が2歳の頃だ。
岸氏のスピード出世に伴い、晋太郎氏は政治記者から総理秘書官に転身。そして1958年の総選挙に出馬するや、安倍家の状況は一変した。
「普通の家庭の団欒は、なかった。父親は全然家にいなかったから。父親がいたりすると家の中がギクシャクしたほどだった」
安倍氏は野上氏のインタビューにそう振り返ったことがある。総理秘書官の父は連日のように深夜に帰宅し、休日も仕事。母の洋子さんは夫の選挙のために地元の下関に張り付き、東京の家には幼い安倍兄弟がポツンと残された。
「友人宅で一家団欒の光景を見たりすると、『ああ、いいな』と思ったりした」と“普通の家庭”への憧れを語った安倍氏の言葉が改めて思い出される。