7月8日、午前11時半ごろ、奈良県の大和西大寺駅付近で安倍晋三・元首相が銃で撃たれて亡くなった。政治家としての安倍氏の実績はよく知られているが、ひとりの人間としての実像はあまり知られていない。40年超の政治記者人生を安倍家取材に費やし、『安倍晋三 沈黙の仮面』著者でもある政治ジャーナリスト・野上忠興氏の取材資料を元に、安倍氏が政治への道を歩み始めた瞬間を振り返る──。
アメリカ留学後、米留学後、安倍氏は神戸製鋼に就職、本社輸出部に配属されて「仕事の喜び」を見出すようになった。そして、1982年、父・晋太郎氏が外務大臣に就任、秘書官になるよう命じられた。だが当時、安倍氏はこれに反発。神戸製鋼を退職することを拒否した。
元来、晋太郎氏はせっかちだった。外務大臣就任後も政務秘書官不在が続く異例の事態に苛立ちを募らせ、同社首脳部に連日電話を入れては、退職させるよう迫った。収拾に当たった晋太郎氏の秘書は、かつてこう語っていた。
「神戸製鋼の総務部長が『大臣からは矢の催促ですが、本人がウンと言わない限り辞めさせることはできない。社長も副社長も頭を抱えている』と泣きついてきた。会社側は、夜のうちに晋三さんの机を撤去し、朝来ても『出社に及ばず』と通告する強行手段まで検討したそうだ。が、これは不祥事を起こした場合の措置で、労働組合の同意がなければできないという説明だった」
安倍氏と父・晋太郞氏のにらみ合いは、会社を巻き込んで2週間余り続いた。その頃、成蹊大アーチェリー部時代の友人に、安倍氏は心境を吐露していた。
「親父に秘書官になれと言われて辞めることになったんだが、会社にどう説明したらいいのか困っている」
友人は「とにかく上司に相談して了解を取ったほうがいい」とアドバイスしたとという。最後に安倍氏を動かしたのは、直属上司の言葉だった。その課長は「ちょっと飯食いに行こう」と安倍氏を食事に誘った。