ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。近現代編第九話「大日本帝国の確立IV」、「国際連盟への道2 その2」をお届けする(第1347回)。
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幸徳秋水の処刑からしばらくしてのことである。幸徳が取り調べの官憲に対して、「いまの天子は、南朝の天子を暗殺して三種の神器を奪い取った北朝の天子(の子孫)ではないか」と言った、という噂が流れた。
「いまの天子」とは当時の今上天皇すなわち明治天皇のことだが、あくまで噂であり公式の調書や裁判記録でその発言を確認することはできない。では、そんな発言は無かったのかと言えば、あったに違いないと私は思う。いかにも古今東西の歴史に通じ反骨精神の持ち主である幸徳が口にしそうなことだ。おそらく、この言葉を聞いた取り調べ側は「あまりに畏れ多い」とばかりに記録はしなかったが、やはりそのなかに「後世に伝えるべき」と思った人間がいたのではないか。「後世に伝えるべき」では無く、「幸徳はこんなにトンデモナイヤツだ(だから死刑は当然だ)」という意図だったかもしれないが、この発言はまったくのデタラメと切り捨てることはできない内容を含んでいる。
南北朝時代のことをこの『逆説の日本史』で書いたのは、ずいぶん前(『第7巻 中世王権編』)のことだが、覚えておられるだろうか。室町時代初期のことである。すべては後醍醐天皇という我欲旺盛な人物から始まった。後醍醐は日本初と言ってもいい、権力者にして朱子学信者だった。だから「覇者(武力陰謀によって天下を取った者)」に過ぎない鎌倉幕府が、正統な権力者である「王者(徳をもって世を治める者)」の天皇家を蔑ろにして日本を支配するのは許せない、と立ち上がった。いわゆる尊王斥覇の思想である。
そもそも、自分が「有徳者」だと信じて疑わないところがいかにも後醍醐なのだが、軍事政権である鎌倉幕府を倒すには軍事力がいる。そこで、当初は朱子学の「同志」とも言える楠木正成が奮戦し、後に幕府の大物である足利尊氏が後醍醐陣営に加わったことにより後醍醐の倒幕は見事成功した。建武の新政である。
しかし、後醍醐はもう一つ野望を抱いていた。権力から武士をでき得る限り排除することである。鎌倉時代以降、日本の軍事・警察そして通常の行政も武士が仕切っていたから、そんなことは現実的には不可能である。それなのに後醍醐がなぜそんな野望を抱いたかと言えば、後醍醐も所詮は神道の信者であり、取り巻きの公家と同じく「死のケガレに日常的に触れている武士は、神聖なる日本国を治めるべきではない」と考えていたからだ。
天皇あるいは貴族は「ケガレ忌避思想」の信者であるからこそ、平安京の時代にすでに桓武天皇が軍事権を放棄してしまった。これが日本史最大の特徴で、天皇という権力者が軍事権を放棄したのに、その「丸腰の天皇」を天皇家以外の者が討てなくなった。なぜ討てなくなったかと言えば、天皇が神の子孫であるとの信仰が完全に確立したからである。
しかし天皇家(朝廷)が軍事から手を引いたことによって、実際に軍事力を保持している人間(将軍あるいは執権)や組織(幕府や信長・秀吉の政権)が日本を実質的に統治することになった。これが武家政治である。朝廷はそもそも軍事警察などといった「ケガレ仕事」には関心が無い。それゆえ、そうした「業務」は幕府に任せ、朝廷は花鳥風月を愛でていればよいとの分業体制(朝幕並存)ができていたのに、後醍醐は無理やりこれを壊そうとしたのである。当然失敗する。
最初は後醍醐の意向を尊重していた足利尊氏も、ついに反旗を翻し後醍醐を追放し、新しい幕府を建てた、室町幕府である。それを絶対許せないと考えた後醍醐は、皇位の象徴である三種の神器を持ち去り吉野に亡命政権を樹立した。これが後に南朝と呼ばれる。一方、京都では武士の第一人者が天皇によって征夷大将軍に任命されたという形を取らねば幕府を開けないので、足利尊氏は反後醍醐派の皇族をかつぎ上げ、天皇に即位させた。「神器無き天皇」の朝廷、これが北朝である。その後醍醐はとうとう幕府および北朝を倒せず、吉野の山奥で深い怨念を抱いて死んだが、皇位と三種の神器は子孫に受け継がれた。