7月8日に奈良市内で銃撃され亡くなった安倍晋三・元首相の通夜・告別式が、東京・港区の増上寺で執り行われた。安倍氏の亡骸を乗せた霊柩車は自民党本部・議員会館・国会議事堂・総理官邸といった縁の地をめぐり、都内の斎場へ向かった。まもなく荼毘に付されることになる。政治家としての安倍氏の実績はよく知られているが、ひとりの人間としての実像はあまり知られていない。40年超の政治記者人生を安倍家取材に費やし、『安倍晋三 沈黙の仮面』著者でもある政治ジャーナリスト・野上忠興氏の取材資料を元に、少年時代の安倍氏のエピソードを振り返る──。
晋三氏の父・晋太郞氏(元自民党幹事長)は、生まれて80日後に両親の離婚で母と離別し、22歳の時に父の寛氏を亡くしていた。寛氏も政治家だったため、晋太郞氏は“家庭の味”を知らなかった。そのためか、子供たちへの愛情表現も苦手だったようだ。
安倍家の“乳母”として知られ、晋三氏の養育と教育を任せられていた久保ウメさんは、野上氏の取材に「パパ(晋太郞氏)が晋ちゃんを抱っこするのをほとんど見たことがない」と語っていた。また、古参秘書も「晋太郞さんが子供たちの授業参観に出たという記憶がない」と振り返っている。晋三氏自身も、「家族への愛情表現も極端に不器用だった」と語っている。
父・晋太郞氏と息子・晋三氏の距離感は一般家庭と違うものがあったが、それでも晋三少年は、どの子供もそうであるように、父を喜ばせようとしたことがある。ウメさんは野上氏の取材にこう語っている。
〈幼稚園くらいの頃、晋ちゃんがあめ玉をくわえながら、『ボク、パパのあとやるよ』って、政治家を継ぐって言い出した。三つ子の魂百までと言いますが、幼心に“パパが一生懸命やっている。自分もいつかは”と思ったんでしょう〉(『安倍晋三 沈黙の仮面』より)
晋三氏が9歳だった1963年、晋太郞氏は3期目の選挙で落選する。再起を期して、“パパ”は選挙区をかけずり回っていた。そんな中、晋三少年はバス遠足に行った。歌合戦になってマイクが回ってくると、突然、こう言って同級生達を驚かせた。
〈ボク、安倍晋太郞の息子です。安倍晋太郎をよろしくお願いします〉(同前)──そう友人たちの前で父の応援演説をしたのだ。
息子は、がんで1991年にこの世を去った“パパ”と同じ67歳で凶弾に斃れた。