決断にあたり、秋野は医師から治療効果の見込みとして「完全寛解して治る確率は約40%」「約50%は再発する」「5年後に声が温存できている可能性は約25%」「5年生存率は約30%」との説明があったとも綴っている。冒頭の《やや厳しめ》という言葉は、この数字を受けてのものだ。
秋野はリスクを承知で、「切らない」化学放射線療法を選択した。彼女が意識したのは治療後の「生活の質(QOL)」だった。
「秋野さんが気にしたのは、やはり声だったようです。生存率が上がったとしても、声を失って生きるのは、生きがいを失うのと同じという考えがあったのでしょう。秋野さんは小学校の学芸会をきっかけに演劇の面白さを知って芸能界を目指しました。がんを克服した後も、変わらずに大好きな仕事をしたいと考えたようです」(秋野の知人)
声を失っても命を落とすよりはいいという考えもあるだろうが、今回の選択には秋野の「生き方」が反映されている。
たったひとりの家族が理解してくれた
秋野はブログで《人は、何をするにも日々選択しながら生きています。決断し続けているんです》とも記している。がんの治療法を選択したとき、脳裏をよぎったのは最愛の母の死だったかもしれない。
秋野の母は自分の最期を自らの意志で決めたいということから、『日本尊厳死協会』に入会していた。母は秋野に、「私が死ぬときは、静かに死なせてね。延命治療はしないで」と常々お願いしていた。母が危篤に陥った際、秋野はその気持ちを尊重して延命治療はしなかった。
「秋野さんは決して死に直面しているわけではありませんが、母の“そこまでして生きたくはない”という気持ちと重なったのではないでしょうか。ポジティブな秋野さんのことですから、リスクと手術後の生活を冷静に天秤にかけて、切らない選択をしたのでしょう」(前出・秋野の知人)
秋野も自身が60才のときに、母にならって日本尊厳死協会に入会。以降、終活にも積極的に取り組み「これからの生き方」に向き合ってきた。